<< September 2020 | 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 >>

新型コロナウイルス問題から その4

JUGEMテーマ:日記・一般

 

 

 

 

 

 

 

 9月になりました。 3月のフキノトウから始まった山菜採りも6月のタケノコ採りで一括りになりました。 山菜図鑑によっては果実も山菜に加えているから、それなら冬まで山菜採りが楽しめることになりますが、以前は秋のキノコ採りまでしばらく空白期間がありましたが、数年前から7月にヤマドリタケ(モドキ)を採るようになってから山菜採りからキノコ採りまでのブランクがなくなりました。 ヤマドリタケはちょうど梅雨の時期にマツやクヌギの混成林を歩くと、もちろんどこにでも出ているわけではありませんが、アジサイのようにボコボコ出ているのを見掛けます。 このキノコは7月の梅雨の時期に出て8月は止まって、9月に入って涼しくなるともう一度出るように見受けられます。 マツタケでも夏に出るサマツ(バカマツタケ)がありますが・・ ヤマドリタケはヨーロッパでは最高に人気があるキノコで、イタリアではポルチーニ、フランスではセップ、ドイツではスタインピルツと呼ばれるそうで、ポーランドでもよく料理に用いられるようです。 スタインピルツは石のように固いという意味だそうですが、日本のヤマドリタケは他のイグチ類に比べて固いことは固いけど石ほどではないし、同じ名前のキノコでもヨーロッパと日本のものはやはりどこかしら違いがあるようです。 日本と外国では同じ気温同じ湿度でも何となく空気が違う感じだし、そもそも林の植生が異なるから同定されるキノコ同士もその形態に違いが出るのは当然だと思います。 「風土」という巧い言葉がありますが、ただ、日本でこのヤマドリタケがまったく人気が無いのは不思議です。 人気が無いと言うより知られていないと言った方が正確かもしれないけど、アメリカやヨーロッパにもマツタケはあるんだろうけど人気が無いのと同じかもしれません。 山で採集されるような山菜やキノコはまだその土地の慣習が根強く残っているということでしょう。  日本では夏にキノコ採りをする人はほとんどいないし、夏のキノコは危ないという固定観念があるのかもしれません。 信州にもイタリアンだかフレンチのレストランがあって、乾燥ポルチーニを使った料理もありますが、たぶんヨーロッパからの輸入品だと思うけど、まさかシェフも店の裏の林に同じキノコがポコポコ出ているとは夢にも想っていないでしょう。 食べられるか食べられないか分からない物を食べるなんて原始的体験は現代人は無縁だと思いますが、人間は意外と食材に関しては保守的なところがあるかもしれません。 スーパーで食べたことが無い食材を見掛けて、もちろんスーパーで売っているんだから100%安全なんだろうけど、どう調理していいのかという問題もあるんでしょうが、買って食べるのは<ちょっとした勇気>がいると思います。 食べ歩きが趣味の友達に「このキノコ美味しいから食べてみたら?」なんて渡しても「大丈夫?」とか、「毎年食べてるんだから絶対大丈夫だよ〜」なんて言っても、食べたくないな〜なんて顔してることもよくあります。 食べることは、普段あまり意識しないけれど、その食材を体の中に入れる、同化することで、食べ慣れている物はいいけど、異質な物は本能的に警戒する、腸内フローラのバランスを崩す可能性もあるかもしれません。 今年の土用丑の日にウナギを食べましたが、ウナギは喜んで食べても、ほとんど人はヘビは食べられないでしょう。 うな重の中にヘビのかば焼きを混ぜておいたら、どうなるでしょう? 「あ、今、食べたとこ、格別美味かったな、どこの部分かな?」なんて、ヘビだと教えたら、みんな顔色が変わると思いますが、中には本当に気分が悪くなる人がいるかもしれません。 食べ物に関しては固定観念が大きく支配するのは面白いと思います・・

 

 

 さて、9月になってもまだコロナ騒動が続いています。 地域活動も滞っていますが、数年前から、地区のある会で会計を任されていて4月の総会のために収支決算書をまとめました。 今年は総会は開かれず事業報告や決算書の書面のコピーを回しただけで終わりになったので、楽で助かりました。 何かと話題になるPTAの新役員さんも今年は会合もイベントも少なくて助かっていると思います。 収支決算書と言っても、大きな会ではないし会費がきちんと入ってきて毎年同じような活動をしているだけなので、借り入れもないし繰越金が残っていくから、難しいことは何も無いんですが、ふと、人生というか、人の日々の生活もこの収支決算書と似たところがあるんじゃないかと気付きました。 バランスシートという言葉もありますが、収入と支出のバランスで、人は<良い気分、楽しい事、嬉しい事>とともに<心配な気持ち、煩わしいこと、悩み事>のプラスとマイナスの気分をフリコのように行ったり来たりしながら生きているんじゃないかと思います。 誰でも、このプラスとマイナスのミックス気分で生きているわけで、どれほど恵まれた境遇の人でもプラス気分だけ、逆にどんなに悲惨な状況の人でもマイナス気分だけで暮らすことは出来ないんじゃないかと思います。 最近のプラス気分を思い付くままに上げてみましょう。 定額給付金10万円が入った、すぐに無くなってしまいましたが、コロナ禍でもそれほど売り上げが落ちなかった、スマホが入る良い革の長サイフを見付けた、ヤマドリタケの穴場があった、トライアルバイクを修理してまた走れるようになった、近所に小洒落た焼き鳥屋が出来たなどなど・・ 逆にマイナス気分は梅雨がいつまでも続いている、コロナでみんなマスクをしていて表情が分からないし街を歩いても全然面白くない、最近、左腕がしびれるようだ、歳かもしれない、問屋から納品日に間に合わないと電話があった、ブログの更新が遅れているなどなど、悩みの種も尽きません・・ 基本的に考えたら、プラスを増やしてマイナスを減らすのが幸せな人生になるんでしょうが、野球の試合で言ったら、完封勝ち、完封負けは無いことになりますが、3−2で勝つより、10−3で勝つ方が楽勝、幸福な人生だし、3−10で負けるのは不幸せな人生になると思います。 ですが、そう単純に割り切れないのが人生の妙というものでしょう。 プラスだと思っていたものがマイナスだったり、マイナスがプラスに転換することもあります。 例を上げてみましょう。 部屋が散らかって来たな、そろそろ掃除しなきゃいけない、これはほとんどの人にとってマイナス気分になると思います。 仕方なく床を掃いたり、散らばっていた本を整理したりしてたら部屋が整って気分もさわやかになってきた、これはプラス気分に変わったと言えるでしょう。 その逆バージョンもあると思いますが・・ または、マイナス気分だったけど、楽しい事があって嵌まっていたら、いつのまにかマイナス要因が無くなっていたとか、気にならなくなったなんてこともあるでしょう。 さらにプラスマイナス気分は人によっても異なってくると思います。 手っ取り早い話、100万円の借金をしてしまったら、ほとんどの人にとってマイナスですが、億という金を動かす人にとっては痛くも痒くも無い、小学生に100円玉を上げたら大喜びするなんてこともあるでしょう。 一つの悩みが解決してやれやれと思ったら、一難去ってまた一難で、別な悩みがグラスのビールの底の泡粒ようにふわふわ浮かび上がって来る、この繰り返しで、案外、プラスマイナスの内容に関係なく、常にこのバランスが保たれるような仕組みになっているのかなと思われるほどです。 一国の首相の悩みと一般人の心配事では、それこそ次元が異なると思いますが、その本人が感じている苦痛というのは、もしかしたら、それほど変わらないかもしれません・・  

 

 

 この心理バランスは何かに似ていると思っていたんですが、腸内細菌叢に似たところがあるんじゃないでしょうか? 腸内フローラは人や動物の腸の内部に生息している常在細菌ですが、人では約3万種類、100兆から1000兆個が生息して、1.5キロから2キロの重さになると言われています。 人は母親の胎内にいる時は無菌状態ですが、産まれる時に産道で、さらに母親との接触や食餌などによって微生物に感染し始め、微生物はその後、体表面、口腔内、鼻腔、消化器官、泌尿生殖器などで常在することになります。 腸管内の細菌が腸内細菌ですが、腸のヒダを広げるとテニスコート一面分にもなるそうで、お腹の中にテニスコートの広さのお花畑が広がっていると想像するのは面白いと思います。 腸内細菌は細菌同士やウイルス、または人とも共生していて、人が分解出来ない多糖類を脂肪酸に分解してエネルギーに変換したり、外部から侵入した病原菌やウイルスの増殖を抑える感染防御の仕事も行なっています。 腸内細菌は便宜的に善玉菌、悪玉菌、日和見菌に分けられていますが、善玉菌にはビフィズス菌、乳酸菌、アシドフィルス菌など、悪玉菌にはウェルシュ菌、病原性大腸菌、黄色ブドウ球菌などがありますが、面白いのは例えばビフィズス菌を増やそうとして、ヨーグルトやビフィズス菌のエサになる食材を摂っても、すぐにその菌が増えるわけではないそうで、腸内細菌叢は幼児期に食べた物、親からの遺伝、その地域の食生活などが係わっていて、人によって一定のバランスが保たれていることです。 逆に、なぜ人は体内に悪玉菌を留めておくんでしょうか? それが悪玉だと自他ともに認めるなら、体内から駆除してしまえばいいと思うんですが、胃の中のピロリ菌の除菌が行なわれますが、最近、ピロリ菌も何らかの仕事をしていると考えられるようになったようです。 腸の中の悪玉菌と言われるものを人為的に駆除してしまったらどうなるでしょう? たぶん、日和見菌が悪玉菌の役割をするか、いつのまにか悪玉菌がまた繁殖し出すんじゃないかと思いますが、必要悪という言葉があるように、悪玉菌も何か意味があるのかもしれません。 先程の人間の心理バランスでマイナスがプラスに転換する例が出てきましたが、悪玉菌が刺激になって善玉菌も活性化することも考えられるし、良い意味のストレスですが、腸内細菌を善玉悪玉と明確に区別することは出来ないのかもしれません。 『浜の真砂は尽きるとも世に盗人の種は尽きまじ』と言いますが、これは社会全体を眺れば、過去にもたぶん未来にも<悪人>がいる、悪に絶対的な基準は無いかもしれませんが、悪を無くすことは出来ないという意味でしょう。 子供に「どうして世の中には悪い人がいるの?」なんて聞かれたら、何て答えていいのか分かりませんが、「世の中には悪い人がいるから社会に出てはいけません」なんて教える親はいないと思いますが、そんなことを言ったら、よぼよぼになるまで外には出れないことになりますが、社会のほとんどは良い人だけど悪い人もいる、でもその中で生きていかなければならない、細菌やウイルスと同じく免疫力を持って立ち向かうしかないということでしょう。 少々話が変わりますが、多幸症という病気の人がいるそうですが、どんな悲惨な状況でも落ち込まない、楽しい気分でいられる、そんな人が友達にいたらいつも明るくていいかもしれませんが、多幸症の人は幸福と言えるんでしょうか? 不思議な疑問ですが、もし多幸症の人を幸福と言うなら、近頃、よく取り上げられる映画『マトリックス』の冒頭部分、人間がカプセルに入って楽しい夢を見ている状態、それも幸福と呼ばなければならないでしょう。 やはり人間は電気ではないけど、プラスとマイナスの相克によって生きて行かなければならないと言えるかもしれません・・ 

 

 

 さて、9月に入っても新型コロナウイルス騒動が続いていますが、本題に入る前に『FACT FULNESS』という本について書いてみたいと思います。 この本はコロナが始まる前に書かれた本ですが、少し前、日本でもベストセラーになったので、読んだ人も多いと思いますが、シンプルな本のカバーに「10の思い込みを乗り越え、データを基に世界を正しく見る習慣」というキャッチが書かれています。 世界の様々な状況をどれが正しいか、三択で選ばせると、サルでも三匹に一匹は当たるはずなのに、ほとんどの人が間違えて答える、これは何故なのか? それは昔からの思い込みや世間一般の常識またはマスコミの情報、さらに人間が元々持っている本能によって真実が歪められているからだ、正しい判断をするには、正確なデータや現実を自分の目で見て、自分の頭で考えなければいけないという趣旨のことが書かれています。 このファクトフルネスの精神はコロナ騒動を考える上でも、非常に重要だし、いいタイミングで出版されたと思いますが、ベストセラーになった割には、この精神が世間に浸透し始めたように見えないのは不思議です。 そもそも、正しいデータをどのように入手するか、どれが正しいデータなのかをどう見極めるのかという問題もあるでしょう。 新聞などで書店の人気売り上げランキングが週ごとに掲載されますが、案外、良い本がランクインしているように思いますが、何か賞を取ったような小説とか、有名人が書いたような本が売れるのは分かるけど、これは良さそうな本だなと思える本が売れているのは、読者もそれなりのカンがあるということでしょうか? 口コミとか出版社の宣伝もあるかもしれませんが、買って読んでみなければ内容が分からないのに、良さそうな本が売れるのは、読者もそれなりに真贋を見極める目を持っているということでしょうか? 国民と言うか、市民と言ったら町民は入らないことになりますが、大衆と言うとレベルが下がる感じで、ピープルは一般的な日本語ではありませんが、国の選挙でも終わってみれば、案外、賢明な選択しているなあと感じることがあります。 国民は見ていないようで見ている、賢いのか賢くないのか、よく分からないところがありますが、このコロナ騒動は国民は明らかにマスコミに洗脳されていると思いますが、ファクトフルネスの精神でもう一度、検討してみましょう・・

 

 

 9月5日のデータで、日本の新型コロナ感染者数は71491人、死者は1361人、入院重症者数が8062人、退院数62104人となっています。 以前から指摘されているように、この数字は欧米各国の数十分の一で、東アジア諸国と同じく日本では風邪やインフルエンザ並みの被害しか出ていないことがデータからも裏付けられています。 もちろん、感染防止対策を取っていることが被害を小さくしている可能性もありますが、確か、9月1日の長野県のニュースで、コロナウイルスによる県内初の死者が出たとか、逆にビックリしたんですが、春からあれだけ騒いでいて、今まで県内でコロナで亡くなった人がいなかったのかと驚きました。 このアナウンサーはいつもの調子で一生懸命喋っていましたが、内心、何を思っていたかは分かりませんが・・ 日本を含む東アジア周辺はコロナウイルスによる風邪が流行しやすいと言われていますが、新型コロナウイルスに対する交差免疫が出来ていたという説、あるいは初期の段階で日本人は比較的軽症の新型コロナウイルスに感染して、重症化するウイルスに対する免疫を獲得し、さらに強力なウイルスが入って来てブースター効果を起こしたのではないかという説もあります。 つまり日本などで感染者や死者が極端に少ないのは、初期の段階で新型ウイルスに対する免疫を獲得していたからで、もしそれが事実なら欧米のような自粛などまったく必要なかった、普通の生活をしていて何ら問題は無かった、大失策を演じてしまったことなるでしょう。 1918年から19年まで起きたスペイン風邪では世界人口の3分の1の5億人が感染したとされ、約5000万人が死亡、日本でも39万人が亡くなったとされていますが、これ位の規模をパンデミックと呼ぶなら、現在、世界でも死者数は100万人弱、今回の新型コロナはどう頑張っても?パの字にも達しないでしょう。 第2波が懸念されていますが、そもそも第1波がどれほどのものだったんでしょうか? 中国内部で大地震が起こって、日本にも大津波が来ると数十メートルの高台へ避難していたけど、数十センチの波しか来なかった、それでも第2波が来るんじゃないかと今でも高台に留まっている状態です。 幾ら沖を眺めていても、たぶん第2波も第3波も来ないでしょう。 最初のダイアモンドプリンセス号の感染データからして、クルーズ船は密閉空間だし最も感染し易い状況だと思いますが、3700名のうち634名の感染、重症化したのは7名、そのうち80代の男女2名が亡くなったそうですが、重症化率はわずか1%、致死率は0.3%でインフルエンザ以下でこのウイルスが強毒性でないことは明らかです。 ですが、ここから不思議が連続するんですが、政府関係者がこのデータを見たら、このウイルスは怖れるほどではないとすぐに分かると思うんですが、なぜはっきり「怖れる必要はありません」と発表しなかったんでしょうか? または感染症の専門家だってインフルエンザ並みの疾患だと分かったはずなのに、なぜ逆に何十万人が死ぬなどと煽ったのか、さらに現在でもコロナは指定感染症第二類相当とされていますが、実際にはエボラ出血熱と同じ第一類扱いされているそうで、なぜ解除しないのか、そして今も続いていますが、なぜマスコミは煽りに煽っているのかまったく不思議です。 もっと言えば、一般の人々、国民もなぜそんなに怖がっているのか、問い詰めていったら「それが新型コロナウイルスだから」なんて笑うに笑えない答えが返って来そうですが、不思議不思議のオンパレードです。 最近では陰謀説まで出て来ましたが、陰謀と言ってもコロナを煽りまくって、どういうメリットがあるんでしょうか? 世界中のGDPを何百兆円も落ち込ませて、世界大不況の崖まで追い込んで、メリットがある人がいるんでしょうか? 背後に大掛かりな愉快犯がいて煽っているなら、ずいぶんスケールの大きな愉快犯だと思いますが・・ 先日、ある雑誌で「将来、人々がこのコロナ騒ぎを振り返ったら、史上最大のバカ騒ぎだったと思い出されるだろう」とか、中には分かっている人もいるってことでしょうが、とにかくマジカルでミステリーです・・

 

 

 コロナ騒動を牽引しているのは、言うまでもなくマスコミですが、最近、道路交通法であおり運転の罰則が強化されましたが、マスコミのあおり運転を止めてくれるポリスはいないってことでしょう。 現在のマスコミの中心的存在はやはりテレビだと思いますが、若い人ではスマホに変わってきていますが、スマホのネットニュースも大手メディアのニュースを引用しているから、内容は同じでしょう。 多くの人にとってテレビは物心付いた時から家にある物で、床の間は無くても、居間の最も見易い場所にテレビがある、食事の時、ちょっと暇な時、テレビを付けている、人間は空気が無ければ生きていけませんが、と言って、空気があること、空気を吸っていることを特に意識していませんが、現代人にとってテレビはそんな存在になっているんじゃないかと思います。 ちょうど、学校の教室に入って机に座れば、先生がいて黒板だかホワイトボードに向き合うようになっている、それを何とも思わないのに似ています。 もうだいぶ前ですが、何十年も独り暮らしをしていたおばあさんが亡くなる時、「テレビさん、長い間、本当にありがとうございました」と語ったそうですが、一人暮らしで外へ出ることもあまり無かったおばあさんにとっては、テレビが親友で遊び相手で頼りになる先生だったんでしょう。 つまり、おばあさんにとっては、身近な現実より、むしろテレビの世界の方が現実だった、まさしくバーチャルがリアリティだったということでしょう。 これはおばあさんだけでなく、多くの現代人が陥っているトラップかもしれません。 <テレビを通して見る>つもりが<テレビが見ているように見る>状態になっているんじゃないかと思います。 日本の政治をどう見るか、テレビが見ているように見る、社会状況をどう見るか、テレビが見ているように見る、世界情勢をどう見るか、テレビが見ているように見る・・ コロナウイルスには免疫があっても、テレビにはまったく免疫が効かず、一億人が感染してしまった感じです。 もちろん、政治や社会状況や世界情勢を知るのも、一般人は千里眼やどこでもドアを持っているわけではないので、マスコミの力を借りるしかないし、マスコミだってどのように情報を集めるか、記者クラブに詰めるとか、アメリカならアメリカから入って来るニュースを配信するとか、すべてを網羅した客観的なニュースなど流せるはずは無いでしょう。 ですが、あまりに偏ったニュースを流したり、受ける方もマスコミに依存し過ぎることは戒めなければならないと思います。 今回のコロナ騒動でマスコミは必要以上にコロナの恐怖を煽りましたが、ステイホームでテレビを見ていてくれれば視聴率が上がると言っても、煽り過ぎてスポンサー企業の収益が悪化したら、自分達の経営にも影響してくるだろうし、「嘘も100回言えば真実となる」という言葉がありますが、何日プロパガンダを続ければ国民を洗脳出来るか、まさか実験していたわけでは無いと思いますが・・ 今回の件でマスコミはその信頼も大きく損ねたと思いますが、9月6日に九州地方を台風10号が通過して、当初、猛烈な台風で特別警報を発表する可能性があると予告してしていましたが、急速に勢力が弱まって大きな被害は出ませんでした。 翌日、予報官だかがテレビに出て来て、弱まった理由として、その前の台風9号が海水を撹拌して水温が下がったせいとか説明していましたが、これは少々驚きました。 天気予報は気象衛星もあるし、その精度は上がって来ていますが、それでも自然現象だから外れることもあるでしょう。 それは仕方ないと思いますが、予報が外れた時は謝罪しろとまでは言いませんが、せめて外した理由を説明すべきでしょう。 どんな仕事をしていても、ミスを犯したら謝罪するのは当然ですが、天気予報は謝罪も無ければその理由説明もない、のこのこ出て来て、平気で明日の予報を喋っているんだから、気象予報士は楽な仕事だなと思っていましたが・・ マスコミも今回、恐怖を執拗に煽った理由をきちんと解明して謝罪すべきでしょう。 それが、マスコミが信頼を取り戻す第一歩になると思います・・

 

 

 東日本大震災を個人に例えると、体の一部を複雑骨折して、未だにその箇所に後遺症が残っているような状態ですが、今回のコロナ騒動はどう考えたらいいでしょう? 病気に罹ったというより、振り込め詐欺に引っ掛かって財産の半分近くを巻き上げられて、おまけにノイローゼにさせられてしまったようなものでしょう。 このノイローゼ状態から立ち直るのは、ケガ以上に時間が掛かるかもしれません。 振り込め詐欺はもちろん詐欺グループが悪いわけですが、騙された方にも問題があると言われますが、そのほとんどがお年寄りですが、コロナ騒動を被害者の立場から考えてみましょう。 今回の騒動が戦前ではなく、21世紀に入って20年も経ち、平成も終わりさらに新しい時代に入ってから起きたことに、自分は少なからぬショックを受けました。 これが戦前に起きた事件なら、戦前は思想や学問や表現の自由は制限されていたから、そんな事もあるかもしれないなで、ドイツ国民だってヒトラーに引っ掛かってしまったわけだし、まあ話は分かるんですが、戦後70年以上も時代が進んで、衣食住は満たされ、あらゆる情報が手に入り、自分の意見を自由に発信出来る時代に起きたことに大いに驚きました。 若い人達も先生や親に指示された小学生のように、健気にマスクを付けて街を歩いていますが、自分達の行動に何の疑問も抱いていないんでしょうか? 戦後の教育基本法を見れば、あまり詳しくはありませんが「幅広い知識と教養を身に付け、真理を求める態度を養い・・」「・・創造性を培い、自主及び自律の精神を養うとともに・・」など人間的成長を目指す文章が並んでいますが、戦後の学校教育とは何だったんでしょう? 現在、国民が教育に掛ける時間やエネルギーや金は膨大なものがあると思いますが、マスコミのブラフにこんなに簡単に引っ掛かってしまうのは、教育が全然役に立っていないということでしょう。 例えば「免疫力」一つ取り上げてみても、中学で習うか、高校で学ぶか知りませんが、免疫力が体にあるんだから、むやみにウイルスを怖れる必要は無いと分かるはずですが、そう考える若者がほとんどいない、ただ回りの状況に流されているのは、仮に学んだとしても、ただ頭の中のフォルダにしまい込んであるだけ、まるで自分の血肉になっていないということでしょう。 この調子で行ったら、例えばマスコミが「新型コロナウイルスのワクチンが出来ました!このワクチンを接種すれば、もう大丈夫です!」なんて大宣伝したら、われもわれもと押し掛けて、逆にその副作用で何十万人が苦しむなんて、コロナ以上の大薬害事件が起こる可能性だってあります。 今回のような危機的状況に冷静に対応出来るようになることが学問や教育の目的の一つだと思いますが、これを機にもう一度、教育のあり方を見直すべきでしょう・・

 

 

 先日、県内のニュースで、「○○市と××町で新たに2人の感染が確認されました。軽症だということです・・」とか、ほとんどポケモン探しの感覚になって来ましたが、だいぶ前ですが、どこかのテレビで、蛍光塗料の物質を使って接触感染がどのように広がるかなんて実験をしていました。 手で触れるたびに蛍光塗料が部屋中あちこちに広がって、床に落ちるものもあるし、空調で空中に巻き上げられるものもあるだろうし、これで体内からの飛沫感染まで加わったら驚くほどの拡散になるでしょう。 あんな映像を見せられて、本気で対策を練ろうとしたら、正常な人でも接触障害?の感染ノイローゼになってしまうと思いますが、追い打ちを掛けるようですが、たぶんウイルスの感染はあの程度ではないでしょう。 蛍光塗料の物質が何か分かりませんが、花粉が30〜40マイクロメートル、黄砂が4マイクロ、細菌が1マイクロ、ウイルスの多くは細菌の10分の1から100分の1で、100ナノメートルから10ナノ、ちなみに原子の大きさが0.1ナノ、電子はその1000万分の1より小さいなどと考えられますが、そこまで行くと大きさという概念が崩れてくると思いますが・・ つまり、目に見えないミクロのウイルスがいったん拡散してしまったら、人間が意識的にそこから逃れることなど不可能だということです。 では、意識の力で逃れられないものにどう立ち向かえばいいのか? 無意識の力に助けてもらうしかないでしょう。 生物が持っている恒常性維持機能ですが、その一つに免疫機能がありますが、これは非常に高度で複雑なシステムで、生物は<感染しないようにする>より<感染してもやられないようにする、入って来た敵を殲滅する>というシステムを造り上げたわけです。 国で例えたら、他国から攻撃されないように逃げ回るより、攻撃されても相手を迎撃して撃退出来る高度な防衛力を整備したことになります。 この力があったから、人間や他の生物もここまで生き延びて来れたはずで、例えば、植物にも免疫システムがありますが、植物は病原菌やウイルスがやって来ても逃げるわけにいかないでしょう。 動物だって「何か、最近、ヤバいウイルスが出て来たらしいから、お互い注意しようぜ〜」なんて連絡取り合ったりしないでしょう。 コミニュケーションを取るのは人間だけ、しかも最近になってからではないかと思います。 もちろん<予防>がまったく意味が無いとは言いませんが、感染症を防ぐ主体はあくまで免疫力であって、逃げ回って怯えて暮らすのは逆に免疫力を低下させることになると思います。 今、社会全体でコロナの不安や怖れや苛立ちが広がっているのは、意識の力で無意識をコントロール出来ないことに起因していると思いますが、以前、どこかのブログで触れたと思いますが、もう一度、「自己管理」という言葉で考えてみましょう。 自己管理という言葉を使う時、意識としての自己が無意識としての自己をコントロールして管理するというニュアンスがありますが、つまり、意識が無意識より優位にあることになりますが、本当にそうなんでしょうか? ここに現代人の思い違いや傲慢さがあると思いますが、むしろ無意識としての自己が意識としての自己を支えているんじゃないでしょうか? 前回のブログで、社会の下部構造としての経済の話が出て来ましたが、似た関係で、恒常性を持った無意識の自己が土台にあってはじめて意識としての自己があると考えるべきでしょう。 変なウイルスが入って来たみたいだから、どの免疫細胞に攻撃命令を出そうかななどと考える人がいるでしょうか? 今日は、あのホルモンをどれくらい分泌しようかなどと頭で計算する人もいないでしょう。 そんなことを意識しなくても自動的に最適な判断を下しているのが自分の体なんだから、もっと自分の体の生命力を信じるべきでしょう。 意識するとしたら、心身ともにバランス良く明るく健康な生活を続けることくらいで十分だと思います・・

 

 

 今回、新型コロナウイルスがここまで大きな問題になっているのは、先程の人間の意識ー無意識にも関係するんですが、一つの<人間中心主義>があるのではないかと思います。 ウイルスや細菌を人間から完全に切り離されたまったく異質な存在だと誤解している人もいますが、ブログの冒頭の腸内細菌のように、おそらく体内にウイルスがいなければ、人間も生きていけないでしょう。 ウイルスの研究は始まったばかりだし、細菌よりはるかに小さな存在なので人間とどのように共生し合っているのかまだよく分かっていないようですが・・ <未知のウイルス>という言葉もよく耳にしますが、未知のウイルスがあるなら、既知のウイルスもあるわけで、新型コロナウイルスもコロナウイルスの仲間だから、SFに出て来るようなまったく未知の宇宙ウイルスとは違うわけですが、ここで、未知のウイルスと言った時の「の」の用法について考えてみましょう。 先の用法と違って、文法的に何て呼ぶのか分かりませんが、「の」はイコールの意味合いで使われることもあります。 「神秘の宇宙」などと言う場合です。 「未知のウイルス」と聞いて、このイコールの意味に解釈している人がいるようで、つまり、ウイルスそのものが未知の存在なのだと勘違いしていることになります。 自分も今回、ウイルスについて勉強してみて、まず驚いたのは種類と共にその数です。 未知どころか、ウイルスは人間や動物の体内から、空気中にも水の中にも土の中にも、およそ地球に存在するすべての物にいるそうで、一滴の海水には何億というウイルスが、コップ一杯なら何兆個というレベルになるようです。(ただ、その「いる」という表現がどういう状態を指すのかよく分からないんですが、ウイルスは生物ではないから、生きている、死んでいるとは言えないと思いますが・・) ともかく、その数は地球上の全生物の全細胞の数より多いことは確実だそうで、人間の細胞数が37兆2000億個と推定されるから、全生物の数を掛けてみたら面白いと思いますが、天文学的数字という言葉は使い古されたから、これからはウイルス学的数字と呼んだ方がいいかもしれません。 人間はウイルスの海を泳いでいる魚のようなもので、当然、ウイルスの影響を受けているだろうけど、その存在にまったく気付いていない、未知より<無知のウイルス>と呼ぶべきかもしれません。 現代社会は、人間生活の向上は自然をコントロールしてより快適にすること、特に細菌とかウイルスとか虫とか野生動物のような下等な?生物からは離れなければならないという風潮がありますが、ほとんどAIの世界に近付いて行く感覚ですが、これは科学技術の進歩やテレビコマーシャルの除菌、殺菌、滅菌なんて文句にも感化されているんでしょう。 ですが、ウイルスや細菌はエイリアンのような存在ではなく、常に人間と共存している仲間だ考えれば、恐怖感も薄れてくるのではないかと思います。 ではなぜ、悪さをするウイルスがいるのか? 「浜の真砂は尽きるとも、世に悪の種は尽きまじ」で、世の中には、どうしても悪というものがある、でも、それも含めて生きて行かなければならないということでしょう・・

 

 

 さて今回はかなりの長文になってしまいました。 読んでる人も少々疲れてきたと思いますが、書いている方はもっと疲れるので、そろそろ終わりにしたいと思います。 日本人の同調性ついて書いてみたいと思いますが、友達と話していると「コロナ自体はそれほど怖くない。ただコロナに罹ってしまったら会社にも行けなくなるし家族も困る。ここで暮らしていけなくなるかもしれない」なんて声をよく聞きます。 コロナよりむしろ社会から排除されることを怖れていることになりますが、これはやはり感染症が特異なもので、ちょうど火事のように一軒から出火してすぐに消さなければ広まってしまう、火事を出した家は居た堪れなくのに似ていると思います。 ガンになった人が世間から非難されるなんてことは無いでしょう。 ただ刑期を終えて戻って来た人がなかなか社会に受け入れて貰えず、再び犯罪を犯してしまうことが多いように、日本は同調圧力が強いことは確かだと思います。 「空気を読む」とか「忖度」とか協調性は良い方向へ向かえば良い結果が出ますが、悪い方へ向かえば最悪の結果になるでしょう。 例えば、戦後の高度成長、所得倍増とか国民が一体となって頑張った結果、あっと言う間に世界第二位の経済大国になった、逆に戦前は「一億火の玉」「欲しがりません勝つまでは」とかで国を壊滅状態に追い込んでしまいました。 この同調性はもともとどこから来ているのか? 日本やアジア諸国は農耕社会で、農耕というのは集団的作業であり、どうしても協力してやって行かなければならなかった、そこからはみ出る者は生きて行けなくなった、逆に欧米は狩猟社会であり、集団的行動が求められなかったから個人主義が発達したなんて説をよく聞きます。 単純に農耕社会、狩猟社会で割り切れるものでもないでしょうが、21世紀になって都市化が進んだ現在でも「村八分」なんて江戸時代の言葉が残っているのは驚きです。 もう2ヶ月以上前の新聞記事ですが「フロリダ無防備な日常」なんてタイトルのアメリカからの記事で「・・フロリダの巨大フリーマーケットでもマスクをしたり社会的距離を取る人は少ない。若い女性に感染者が1000万人を超えたと話しても『そうなの』とそっけない。ビーチで海水浴を楽しむ若者も『怖れて生きて行くのは嫌だ』『そんなものいつまでも構っちゃいられないよ』などと話している・・」 日本人記者の呆れ顔が見えるようでしたが、「そんなものいつまでも構っちゃいられない」この若者の言葉に自分は人間らしさを感じました。 英語で何て言ったかは知りませんが・・ たかがウイルス、されどウイルス、でもやっぱりたかがウイルスでしょう。 なぜ人間様が怖れおののいて、まるで犯罪者のようにコソコソ逃げ回って生きなければならないのか? このアメリカ人の<規律>よりも<自分達の素直な自然な気持ち>を尊重する態度がアメリカを世界一の国にしたんじゃないかと思います。 ヨーロッパからアメリカ大陸へ渡った人々がたかだか数百年で原野だったアメリカに鉄道を敷きハイウェイを走らせ、都市を造り摩天楼を築き上げて、世界の人が憧れるアメリカ文化を造り上げた、もちろん原住民を追いやったり自然を破壊したなど負の側面もありますが、人類に進むべき一つの道を示したことは称賛されると思います。 どんな道でもそこに道があるなら、そこをひたすら走って行けば追い付くことは可能かもしれません。 ですが道を切り開きながら進んで行くのは、はるかに難しいし苦しいし、価値ある立派なことだと思います。 人間は規律の前にまず自分の自由で自然な心に従うべきでしょう・・

 

 

 「人間は社会的動物である」これはアリストテレスの言葉ですが、それが真実なら感染症対策ほど非社会的で非人間的なものは無いでしょう。 人間は体の中に悪いものが入っている、または入っている可能性がある、だからそれを他の人に移さないようにお互い交わってはいけないと言っているわけで、人間不信を正当化して、それを徹底させたら社会を崩壊にまで追い込む可能性があります。 そもそも接触出来ないことになったら、親は子育てが出来なくなるし、その前に濃厚接触になるセックスが出来ないから、子供が生まれて来なくなります。 これからは女性は人工授精で子供を産まなければならないんでしょうか? 最近は人が集まる場所へ行くと表情も無く笑うことも忘れたマスク顔の人ばかりで、洗脳されたカルト集団のような不気味ささえ感じます。 まあ、落ちる所まで落ちれば、ある日、自分の姿を鏡で見て、なぜ自分はこんな恰好をしているのか、一体何を怖がっているんだろうと夢から覚めると思いますが・・ ただ、先日、ある本で、このコロナ禍は人類全体の集合的無意識が働いている、コロナはただそのきっかけであって、その背後には世界の急速な経済成長による地球環境破壊への人々の強い危機意識があるという説を読んで、なるほどそういう見方もあるのかと思ったんですが、確かにコロナ以前の社会が理想の社会だと考える人は少ないでしょう。 経済至上主義で大量生産、大量消費、大量廃棄を続けていけば、本当に地球がおかしくなってしまうかもしれません。 現在、コロナによる自粛やステイホームなどで経済が停滞していますが、ここで一度立ち止まって、今までの生き方を反省する機会になったとも考えられます。 台風が進路を急に変えるように、ここから新しい生き方が始まる可能性もあるでしょう。 今回のコロナ騒動が意図的に起こされたことなのか、偶然起こったことなのか、自分には分かりませんが「覆水盆に返らず」で起こってしまったことは仕方ないでしょう。 「人間万事塞翁が馬」という諺もありますが、これから世界的な不況が来ると思いますが、もし多くの失業者が出るようになったら<ベーシックインカム>を導入せざるを得なくなるかもしれません。 年金や生活保護を止めて、定額給付金のように毎月すべての国民に最低限度の生活費を給付する、人類史上初めて、すべての人が生まれながらに経済的にも生存が保証される社会が誕生することになります。 「転んでもただでは起きない」という言葉もありますが、人々が強い心で立ち向かって行けば、21世紀は新しいルネサンスの時代になるかもしれません・・

 

 

 

 

         

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

     

sakutk250 * 日記 * 20:16 * comments(0) * - * pookmark

新型コロナウイルス問題から その3

JUGEMテーマ:日記・一般

 

  

  

 

 

 

 5月になりました。 4月は寒い日が続いていましたが、5月に入ったら急に暑くなって、カレンダーを一枚めくったら、そこは夏だったみたいな感じです。 虫も舞い始めて、どこで越冬していたのか分かりませんが、半年位どこかへ出掛けていた友達が帰って来た感じで嬉しくなります。 ただ、未だにコロナ騒ぎが続いていて、結局、その3を書くはめになってしまいました。 インフルエンザは寒い冬に流行して暖かくなって湿度が上がって来るにつれて収まることが多いですが、コロナも収束に向かってくれるといいと思いますが・・ 4月の始めに、アメリカの研究チームがカリフォルニア州サンタクララ郡の住人3300人を対象に抗体検査を行なって、これは少量の血液を採取して、ウイルスに感染すると体内に作られる抗体の有無を調べるものですが、予想をはるかに上回る人が抗体を持っていることが判明されたそうです。 他の国の抗体検査でも、抗体を持っている人が想像以上に多かった事例が報告されていますが、これはどう考えたらいいんでしょう? 新聞で、このウイルスは思っている以上にしたたかで知らないうちに入り込んで来るので、よりいっそうの警戒が必要だなんて、逆張りの論理を見掛けましたが、この被験者はたぶん健康な一般人が対象になっているでしょう。 実際にコロナに感染してい人は50倍から80倍に及んでいる可能性があるということで、多くの人が知らない間に感染して、知らない間に免疫力が働いて、知らない間に抗体が出来ていたわけで、何の自覚症状も無かったのは、このウイルスの毒性はそれほど強くない、致死率は思っているよりずっと低い、もしかするとインフルエンザ並みの致死率かもしれません。 <インフルエンザ並みの未知のウイルス>の可能性もあるわけですが、先日もテレビを見ていたら、全国放送が終わって地方のニュースに変わって、そのトップが「今日も○○市で新たに50代の男性の陽性が確認されました・・・症状は無いとのことです」 ずっこけたんですが、たぶん濃厚接触者を検査したらコロナウイルスが見付かったということでしょうが「今日も○○市でインフルエンザに罹った人が見付かりました」なんてニュースは見たことも聞いたこともないんですが、コロナウイルスを体の中にエイリアンに入り込まれたように怖れている人がいるし、始めから<コロナ=非常に恐ろしいもの>という前提ですべての話が進められているんじゃないかと思います・・

 

 

 ここで、もう一度、このウイルスについて調べ直してみたいんですが、中国政府が2020年1月に新型コロナウイルスの致死率は17.3%と発表した時、これはSARSの10%を大きく上回るもので、世界の医療関係者に衝撃を与えたそうですが、2月24日の公衆衛生当局の記者会見では、致死率は3〜4%に下がり、さらに武漢市以外で中国における致死率は0.7%であるとされたそうです。 この致死率の差はどのように起こったのか、発生当初はこの感染病の正体も治療方法も分からなかったこと、院内感染が起こって医療崩壊してしまったことによりますが、徐々に対処法も分かって院内の環境も改善され、致死率の計算は診断された患者のみで行われていて、発症もしなかった人は含まれないから、実際の致死率はさらに下がり、現在では約0・125%位ではないか推定されるそうです。 インフルエンザの致死率が0.1〜2.8%と言われるのでそれほどの差はないことになります。 ただ、日本や韓国、中国、東南アジアなどに比べて、アメリカやヨーロッパで感染者や死者が多いのは何故でしょう? 5月6日の統計で日本の感染者数が1万5355人、死者数が566人、アメリカがそれぞれ118万288人、6万8922人になっているので、死者数は実に100倍以上の開きがあるわけです。 日本では2018年にインフルエンザで3000人以上亡くなって、アメリカでは毎年、インフルエンザの死者数が1万人以上、2018年に6万人以上が亡くなったとされますが、それにしても新型コロナウイルスのアジアとアメリカ、ヨーロッパとの被害差は不可解です。 同じ様な自粛をしていて、これだけの違いが出るのは、人種的遺伝子の違いも考えられますが、アメリカに住むアジア系の感染者は多いそうだし、BCGを接種しているか、していないかなんて説も出て来ましたが、当て嵌まらない国もあるようです。 ウイルスが変異している可能性もあり、最初にアジア地域で広まったものはS型、欧米で流行っているものはより悪性のL型であるとも言われています。 欧米は濃厚接触する機会が多いし、マスクをする習慣が無い、あまり手洗いをしないことも一因かもしれませんが、決定的な理由は分かっていないようです。 イタリアも大きな被害を受けていますが、亡くなる人はどのような人なのか、まず高齢者で持病を患っている人、高血圧、心臓病、糖尿病、さらに呼吸器疾患のある人などがこのウイルスに感染すると危険な状態になることが分かっています。 若くて健康な人は感染しても、ほとんどが無自覚または軽症で済んでしまう、むしろ若い人はインフルエンザで亡くなることの方が多いようです・・

 

 

 感染症について語られる時、幾つかの感染症用語が出て来ますが、全体を正しく理解するために、その用語の意味を明確にしておきたいと思います。 まず、その<感染>という言葉ですが、感染とは本来、体内に入ったウイルスが何らかの細胞に吸着してさらに細胞内へ侵入してしまうことを意味すると思いますが、ニュースや新聞などを読んでいると単に体の中に入ったことも、同じ言葉で感染と呼んでいるようです。 口や鼻から体内に入ったウイルスはたいていの場合は体の免疫機構が働いて死滅することになると思いますが、感染にはこの二つの異なる意味があることになります。 次に<発症>という言葉ですが、体内に入って来たウイルスを殲滅するために免疫機構が働きますが、その戦いが拮抗している場合、発熱やせきや倦怠感という症状が現れるでしょう。 それを発症と呼ぶことがありますが、免疫力で防御し切れなくなって、ウイルスに肺などに侵入されてしまって、肺炎の症状が出て来た時、それも発症と呼んでいるようです。 同じ発症でも中身がまるで違うことになります。 後者は発病と呼んだ方がいいのではないかと思いますが・・ <陽性>という言葉ですが、これは単にPCR検査などで鼻やのどを調べたらウイルスが見付かったというだけで「今日も感染者が見付かった」ということですが、感染を広めないようにしなければならないでしょうが、元々、コロナに限らず、ウイルスはどこにでもウジャウジャいるものだし、たいていの場合、免疫力の方が打ち勝つだろうから、すぐに大騒ぎするほどのことではないでしょう。 さらに<抗体>という言葉ですが、ウイルスを記憶した獲得免疫細胞がウイルスを無毒化したり破壊するために造り出す物質のことを指しますが、先程のアメリカの検査例のように、抗体検査で抗体が見付かったということは過去にそのウイルスに感染して免疫が出来ている証拠になっているでしょう。 言葉を曖昧な意味で使っていると、全体の判断まで狂ってくるので、言葉の意味を明瞭にしておくことは大切なことだと思います・・ 

 

 

 さて、先日、友達と近くの小料理屋で一杯飲んで、自粛要請が続いていて、7時に酒類の提供は終わり、8時閉店ということなので、いつもより早めに飲み始めて、飲み友達は何人もいるんですが、そのうちの2〜3人はビビって飲みにも出れない様子で、まああまり大っぴらにもやれないし、カウンターで細々と飲んで来たんですが、友達が「でも、そうは言っても、これだけ政府や専門家やマスコミが言ってるんだから、やっぱりコロナは警戒しなきゃいけないんじゃないんかい?」とか・・ 「政府や専門家やマスコミがそう言うんだから、やっぱりそれは正しいんじゃないか」って考えは、要するに戦時中の考え方と同じでしょう。 政府や専門家やマスコミが戦争やむなし、日本は最後は必ず勝つと言ってるんだから、日本は勝つだろうという思い込みと基本的には同じです。 このコロナ騒動の不思議なところは、これだけの大騒ぎになっていても、まずほとんどの人がコロナウイルスを見たことが無いということです。 電子顕微鏡でその姿を確認した人は一部の感染症研究者を除いてまずいないでしょう。 「感染拡大が続いている」がコロナニュースの枕詞になっているけど、自分が住む佐久市では一人の感染者もいないし、コロナウイルスの恐ろしさと言うけど、恐ろしさを体験した人が何人いるでしょう? 実際にコロナに感染して発病した人もいるでしょうが、マスコミなどで聞かされているだけで、恐ろしさを体感した人はほとんどいないんじゃないかと思います。 スズメバチに襲われて恐ろしかったと言うなら、話は分かりますが・・ 「猛威をふるっている」という言葉も耳にしますが、大型台風が来て暴風雨を目の当たりにして言ってるなら分かるけど、ウイルスが猛威をふるっているところを見たことがあるんでしょうか? 一部の医療関係者なら、そう感じることもあるかもしれないけど、人づてに聞いた言葉を借用しているに過ぎないと思います。 戦時中に「鬼畜米英」という言葉がありましたが、ほとんどの日本人はアメリカ人やイギリス人と接したことが無い、本当にアメリカ人やイギリス人を鬼畜と思っていたかは分かりませんが、そのように洗脳されていたということでしょう。 <裸の王様>という有名な童話がありますが、案外、ほとんどの人が、裸の王様のトリックに引っ掛かっている可能性もあります・・

 

 

 <裸の王様>は知らない人はいないと思いますが、デンマークの童話作家アンデルセンの1837年の童話で、もっとずっと古い話かと思っていたら意外と新しいことに驚いたんですが、原作は別にあるようですが、ウィキでもう一度、あらすじを追ってみましょう。 「ある国に新しい服が大好きなオシャレな皇帝がいた。ある日、二人組の仕立屋がやって来て『自分の地位にふさわしくない者、手におえないバカ者には見えない不思議な布地を作ることが出来る』と言う。皇帝は大喜びで大金を払い、新しい衣装を注文した。彼らはさっそく仕事に取り掛かかった。皇帝が大臣を視察にやると、大臣は彼らが忙しそうに織っている、地位にふさわしくない者やバカ者には見えない布地がまったく見えなかった。大臣は困ったが見えなかったとも言えず、仕立屋が説明する布地の色や柄をそのまま報告した。視察に行った他の家来もみな『布地は見事です』と言う。最後に皇帝がじきじきに仕事場に行くと、皇帝の目にもさっぱり見えない。自分には見えないとも言えず、布地の出来栄えを称賛した。皇帝の新しい衣装のお披露目の日、着てもいない衣装で皇帝のパレードが始まった。集まった民衆もバカ者と思われるのをはばかり、口々に衣装を褒め称えた。その中で、一人の少年が叫んだ。『皇帝は何も着てないよ!』ざわめきが起こった。『皇帝は何も着ていない!』人々が口々にそう叫び出す中、皇帝のパレードは続いた・・」 童話というより笑話ですが、なぜこんなことが起きるんでしょう? コロナ騒動がそのまま裸の王様の童話に当て嵌まるとは言いませんが、似たような状況になっている気がします。 その王様が着ていた衣装がコロナウイルスになりますが、コロナは目に見えないけれど存在はしているでしょうが、コロナを恐れない者はバカ者、自粛要請に従わない者は国民にふさわしくない、非国民だという風潮が出て来ているんじゃないかと思います。 では、二人組の仕立屋は誰でしょう? それは、感染症の専門家になるかもしれませんが、仕立屋は嘘つきだし詐欺師ですが、もちろん感染症の専門家はうそをついているわけではないですが、あくまで感染症の専門家であって、その目的は感染症の広がりを押さえること、犠牲者を一人でも少なくすることでしょう。 当り前のことですが、社会生活は感染症を防ぐことだけが目的ではないし、医療に限っても三大疾患から始まって、結核やケガの患者もいるだろうし、さらに医療だけでなく、経済、環境、教育、交通、家庭など様々な事柄で成り立っているのが社会であって、それらの問題もそれぞれ課題を抱えているはずです。 その全体のバランスを保つことが政治家の役目であって、感染症の専門家の意見に従っているだけ、欧米の対策の後追いをしているだけでは、政治家失格と言われても仕方ないと思います・・

 

 

 5月の連休が明けても、まだ全国に緊急事態宣言が出されていますが、全国津々浦々、北海道から沖縄まで、感染者が一人も出ていない岩手県まで含まれているんだから、<地方の時代>が叫ばれて久しいと思いますが、日本の中央集権力は大したものです。 そもそもこの自粛はどれ位の効果があるのか、何の対策も取らなかったどうなっていたのか、それはパラレルワールドを覗き見ないと分からないことですが、スウェーデンは自粛政策を取っていませんが、元々、個人主義の国だし<大人の対応>を取っているということでしょうが、感染者が増えて来たとも言われて、今後、どのように推移していくか見守る必要があると思います。 日本でも、そろそろ自粛が緩和される動きが出て来ていますが、自粛要請についてもう一度、考えてみましょう。 インフルエンザが流行り出しても、首相は自粛要請は出さないでしょう。 そんなことをしたら、国民はほとんど毎年、冬から春にかけて自粛することになりますが、なぜ出さないのか? インフルエンザはワクチンもあるし、それほど怖れる必要は無いと考えるからでしょう。 それでも2018年には国内で3000人以上がインフルで亡くなっているそうで、なぜ、2年前は自粛要請を出さなかったのか? エボラ級の毒性を持った未知のウイルスが空気感染を始めたら、SF小説かパニック映画の世界ですが、無対策だったら国民の半分が死ぬようなウイルスなら、これは自粛というよりもっと強力な封鎖、軟禁という政策を取らなければ危ないかもしれません。 つまり、どこで線引きをするかという判断でしょう。 自粛は社会に大きな経済的、精神的ダメージをもたらすし、その判断が的確であるかどうかが、その国や世界全体の未来を左右すると思います。 ただ、今回の件は世界中の誰にとっても初めての出来事で、前例もなく、どう対応したらいいのか混乱するのも無理も無いとも言えますが・・ 将来、もっと毒性の強いウイルスが現れた時を想定して予行演習しているとプラスに考えることも出来るかもしれませんが・・ 

 

 

 都知事が「経済を9割止めてもコロナ対策を」を語って、最近では「コロナと経済のバランスを」にトーンダウンしましたが、バランスという言葉ではまだ言い足りないんじゃないかと思います。 下部構造という言葉がありますが、社会の三角形を底辺で支えている中心的存在はやはり<経済>でしょう。 俗に<食って行く>という言葉がありますが、食って行けなくなったら、医療従事者だって自分が倒れて患者を助けるどころではなくなるだろうし、栄養失調で抵抗力が無くなった人々がコロナにやられてバタバタ倒れ始めて、医療崩壊の前に社会崩壊が起こるでしょう。 経済とは平たく言えば「どうやって食って行くか」「すべての人が食って行くためにはどうすればいいのか」ということでしょうが、生物学的に考えても、生物の3つの特徴は細胞を持っていること、新陳代謝をすること、子孫を残すこととされますが、子孫を残さなかった人はいますが、個として生きていて、エネルギーを得て新陳代謝をしていない人はいないでしょう。 生物は免疫力とか恒常性など防御能力も持っていますが、それ以前にエネルギーを得なければ生き続けることは出来ないし、食物を取ることが出来なくなった生物を待っているのは死です。 「お腹が空いたら動けなくなる」のは子供でも分かることですが、いくら政府が保障や給付金を出しても、自粛を続けて需要が無くなくなれば、生産が止まって供給も出来なくなる悪循環に陥るでしょう。 ワクチンが特効薬として期待されていますが、ワクチンは弱まったウイルスを使うから、ワクチン接種によって発症しないのも基本的には本人の体力があるからで、医療はあくまで「手助け」に過ぎないと思います。 「一人の感染者も出さない」目標は社会の安定した三角形を逆三角形にするようなもので混乱を巻き起こしますが、求められるのは「感染しても頑張って生きて行く」態度ではないかと思います。 感染症の歴史を調べてみても、空気のような存在のウイルスから逃げ回ることは出来ないだろうし、ウイルスが体に入って来ても抑え込める免疫力を保持して共存していく以外、道は無いんじゃないかと思います。 『雨に濡れても』というバート・バカラックの曲がありますが、雨に濡れないように生きるより、雨に濡れても頑張って明るく生きて行く、それが人間らしい生き方ではないかと思います・・

 

 

 テレビや新聞を見ると、連日、コロナで始まりコロナで終わる状況で、今年の流行語大賞は「コロナ」またはコロナ関係のフレーズでほぼ決まりでしょうが、一時期、毎日のように騒いでいた「桜を見る会」問題はどうなったんでしょう? 桜を見るようになってから、全然、耳にしないんですが、要するに始めからどうでも良かったということでしょうか? ちょっと例は良くないかもしれませんが、もし今、日本のどこかで東日本大震災級の災害が起こったら、どうでしょう? おそらくコロナ問題などどこかに吹き飛んでしまうでしょう。 ニュースの重大性など相対的なものだと思いますが、ここで改めてマスコミについて考えてみたいと思います。 そもそもマスコミ関係者、テレビに出ている人、新聞記事を書いている人は優秀な人が多いと思います。 アナウンサーからキャスターからコメンテイター、ジャーナリスト、プロデューサー、全部横文字ですが、または新聞記者も高学歴で頭の良い人が多いと思います。 それでも、皆が皆、毎日毎日、似た様なことを喋ったり書いたりしている、風が吹けば稲穂がみんな同じ方向へ傾くように、何の独自性も無ければ創意も感じられないのは何故でしょう?  これには幾つか理由があると思いますが、やはり真っ先に上げられるのは<専門性の弊害>だと思います。 新型コロナウイルス問題で、まず出て来るのが感染症の専門家でしょう。 感染症について最もよく知っているのは感染症の専門家で間違いないと思います。 経済について最も知っているのは経済学者で、法律について知っているのは法律家だろうし、教育について知っているのは教師になります。 現代は専業化、分業化が高度に進んだ社会だから、そのジャンルの専門家には口を出せない風潮があると思います。 ただ、逆に考えれば、その専門分野に特化し過ぎた結果、他のジャンルがまったく分からない、専門バカという言葉がありますが、感染症は分かるけれど経済は分からない、経済は分かるけど法律は分からない、法律は分かるけど教育は分からない、いわゆる<木を見て森を見ず>で森が見えない人ばかりになってしまったという弊害が生まれていると思われます。 自分が巣を作った木ばかり気にしている鳥が森全体が見えないようなものですが、そう言えば、裁判員制度が始まって久しいんですが、幸か不幸か自分は裁判員になったことはありませんが、その制度の趣旨は、裁判官や検察官、弁護士などの専門家だけの審理や判決に一般の国民の目線や感覚を取り入れようというもので、今考えれば先見の明があったと言えるかもしれません。 もう一つ考えられるのは<学校教育の弊害>です。 少々傲慢に聞こえるかもしれませんが、学校教育とは今も昔も変わらず<受験勉強>のことですが、受験勉強とは、問題があって解答がある、そのパターンを覚えることでしょう。 もちろんその前提には問題と解答の理解が必要でしょうが、求められるのは、与えられたことをきちんこなす、模倣する能力です。 まったく新しい問題が出て来た時、どう答えを導き出すかなんて教育は受けていないんだから、独自性とか創造性など発揮出来るはずもないでしょう。 専門家の言うことをよく聞いて、間違いのないように伝える、優秀なら優秀なほど問題自体を疑うなんてことは考えられない状況になっていると思います・・

 

 

 <ステイホーム>という新語が出て来て、これも今年の新語大賞にノミネートされそうですが、イングリッシュで聞かされると、何となく新しい楽しいことが始まりそうな雰囲気だけど、要するに<家に居ること><引き籠り>悪く言えば<軟禁状態に置かれる>ということでしょう。 家に引き籠って外に出ないことは、精神衛生上、良くないことは誰でも感じていることだと思います。 まず、気分が滅入って鬱状態になる、ホームドラマのような理想的な家庭なら良いけれど、家庭不和があれば、ケンカとかDV、家にいたたまれなくなった少女が性的被害に遭うケースもあるようです。 さらに高齢者の独り暮らしで、それでも以前は近所の人との交流もあったけれど、完全に孤立してしまって何の生き甲斐も見出せず落ち込んでいるばかりとか、外出自粛が続けば、本当の引き籠りになってしまう人も出て来るだろうし、これからどんな後遺症が現れて来るか、経済被害以上に精神的被害も懸念されています。 ところで、素朴な疑問ですが、なぜ家に閉じ籠もると鬱状態になって、外に出ると躁状態になるんでしょう? この歳になるまで真剣に考えたことがなかったんですが、この疑問を検討してみましょう。 連休にオンライン帰省なんてのが出て来て、都会にいる学生とか、田舎に帰らず、スマホで家族と会話するそうですが、いわゆるテレビ電話ですが、テレビ電話ではやはり物足りなさが残るでしょう。 以前、AIのブログで「5感すべてがVRの世界に入ってしまったら現実と見分けが付かなくなる」と書きました。 それでも現実とVRは違います、本物は本物だしVRはVRだけど、本物にあってVRには無いもの、それが何なのかよく分からなかったんですが、結局<気とか生命力との直接の触れ合い>ではないでしょうか? 少々、スピリチュアルな話に感じられるかもしれませんが、人間や生物が目には見えないけれど<気>と呼ばれるものを持っていることは、科学的にも認められ始めています。 気とか気功の本を読んでいると<気のやりとり>という言葉がよく出て来ますが、気を与えるだけでも貰うだけでもなく、お互いに気を上げたり貰ったりする、気をやりとりすることが大切だと書かれています。 外に出ることは、この気や生命力を回りの人や生き物や自然などと無意識の内にもやりとりすることになっているんじゃないでしょうか? 家の中に籠ることは、その気を発散も出来なければ貰うことも出来ない、鬱屈状態に陥ることになるでしょう。 経済でも<金を回す>という言葉が出て来ますが、金が回ることによって交換が始まって物が動いて、消費と生産の循環が起こり、人々が豊かになっていく、似たような仕組みではないかと思います・・ 

 

 

 さて、自分の友達を見ていると、コロナを非常に怖れている人、それほど気にしていない人に分かれるんですが、怖れている人はお互いそんなに若くないし、タバコを吸う人もいるので、怖れる気持ちも分かるんですが<怖れ>の反対語とは何でしょう? これは解釈によって幾つか反対語があるようですが<期待>もその一つかもしれません。 何かを極度に怖れる人は案外、何かを強く期待する心も持っているんじゃないかと思います。 コロナに罹って死ぬのは最悪かもしれませんが、その反対方向の期待の延長線上には僥倖もありますが、宝くじで1億円が当たったとか、人生が一変しそうですが、何か自分以外の物が自分の人生を左右するという思い込みがあるように思います。 逆にコロナをあまり怖れていない人は、何が起こっても最終的に自分の人生を決めるのは自分自身だという信念を持っているように思います。 どちらが正しくてどちらが間違っているとは言い切れないかもしれませんが・・ 最後にもう一つの質問、<ふるやのもり>じゃないけど、この世で一番怖いものは何でしょう? <無知>も恐ろしいものの一つでしょう。 最近、訴訟があったハンセン病があります。 ハンセン病をもたらすのはらい菌ですが、感染力は非常に弱く、ほとんど感染しないことが分かっています。 ただ、過去にその患者は療養所に隔離され不当な差別を受けてきて、これは隔離した行政側も悪意があって行なったことではないと思いますが、ハンセン病は感染するのではという<怖れ>が根底にあったからでしょう。 無知ゆえの悲劇です。 2000年以上前にソクラテスが<無知の知>という教えを残しましたが、現代人もまずそこからスタートしなければいけないかもしれません・・ 

 

 

 

  

 

 

 

 

 

 

 

                   

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

sakutk250 * 日記 * 21:06 * comments(0) * - * pookmark

新型コロナウイルス問題から その2

JUGEMテーマ:日記・一般

  

   

  

 

 

 

 4月になりました。 長野県では梅から桜にバトンタッチして行く季節ですが、年度替りで総会やら会計報告やら煩わしい時期でもあります。 ただ、今年はコロナ騒ぎでほとんどの総会や懇親会が中止、資料の配布だけで終了、お祭りの実行委員にも加わっていますが、町の春祭りも中止で、内心ほっと一息付いているところです。 毎年のお祭りを予定していた業者や飲食店は痛手でしょうが、逆に内部留保は貯まっているとも言えるでしょう。 そんな状況で、今年も山菜採りがスタートして、先日の日曜、近所の歯医者さん親子と山へ出掛けて来ました。 先生と奥さんと小学校の男の子、それにコロナ休みで東京から戻って来ていた大学生の4人。 フキノトウはちょっと遅いし、ウドの芽は少し早いかなと思ったけど、少しは採れるだろうといつものポイントへ行ってみました。 フキノトウはフキの花のことで、フキノトウはまず花が咲いてから葉が伸びて来ますが、花の苞が開く前の状態が理想です。 花が咲いたものも食べられないことはないし、天ぷら、フキ味噌にすると美味しいと思います。 ウドの芽はまだ早くて、去年の枯れたウドの茎の根元に鬼っ子の牙みたいな赤い芽がかろうじて幾つか見えるくらいでした。 それでも掘れば、そこそこの長さになるので、せっかく来たんだし、何本か堀り出しました。 もう一週間もすれば、草色で手のひらを広げた長さのウドの芽に成長するでしょう。 先生が小さい芽を見つけるのが上手くて、日頃から歯を見てるから見付けるのが上手いんかな?なんて、それは関係ないんじゃないかとか。 でも大学生の男の子は山菜採りは初めてみたいで、何を採るのか戸惑っていましたが、今の若い人は山菜採りとかキノコ採りとか川遊びも含めてやらないんですね。 アウトドアスポーツはともかく、野山で何かを採って遊ぶなんてことが無い、田舎の子供でもそうなんだから、都会の子供は尚更でしょう。 子供だけではなくて、その親の世代だってそういう遊びを体験したことが無い人が多いと思います。 食べ物はスーパーで買う物だって意識があって、野山で採るなんて初めてで、採るは盗るにも繋がるし、本当に採って持って帰って食べちゃっていいのかななんて感覚もあるようです。 「シカの糞があったよー」なんて小学生の男の子が叫ぶので行ってみると、チョコボールみたいな糞が固まって何か所か落ちていて、よくシカの糞て分かったなと感心しましたが、人間と違ってあんな丸い糞になるのは不思議です。 男の子がしゃがんでしばらく糞を眺めていましたが「触らないでよ」なんてママに注意されてたけど、出来たてホヤホヤではなかったけど、この糞の回りの空気には、非常に薄まってはいるけど、シカの中にいた細菌やらウイルスが漂っているんじゃないかと思います。 それに近付くことは、その細菌やらウイルスを吸い込むことになるけど、たぶん毒性のあるものは少ないと思いますが、それらを体内に取り込むことによって新たに免疫力が働いて、その抗体が出来ることは十分考えられます。 インドアに籠っているよりアウトドアで遊んでいる方が体に抵抗力が付くというのはそういうことでしょう。 ですが、街中はコロナで大騒ぎですが、野山ではいつもの年と変わらず山菜が芽吹いて、新緑が広がって、山桜も綺麗に咲き出しました。 こんな所の山桜は人に愛でられることもないでしょうが、そういえば、東日本大震災の時、その翌日、地上は地獄図だったけれど、空は何事も無いかのような綺麗な青空が広がっていて、それが逆に自然の凄さ、残酷さを感じさせたなんて記事を目にした記憶がありますが、コロナウイルス問題がどういう結末になるか分かりませんが、自然は人間の思惑などまるで関係なく廻って行くということでしょう・・

 

 

 

 さて、4月下旬においても新型コロナウイルスの感染は続いていますが、このウイルスの特徴は罹ってももほとんどの人は発症しない、または軽症で済んでしまう、それほど毒性は強くないということですが、ただ免疫力が弱っている人、基礎疾患のある人、高齢者、妊婦などは重篤化しやすい傾向があるようです。 感染力もそれほど強くないようで、それは濃厚接触者でも検査の結果、陰性の人が多いことからも分かりますが、ただ潜伏期間が長くて、その間、人の移動も起こるから、感染が広まりやすいと言えます。 エボラ出血熱のような強毒性のウイルスは短期間で人を重篤化させたり死に到らしめるわけで、逆に感染が広まりにくいんじゃないかと思います。 感染症についてあまり勉強したことがないんですが、こういう状況だしその基本から考え直してみましょう。 その前に、一つ、注意したいんですが、時々「新型のウイルスなので免疫が無い」という説明を耳にしますが、免疫という言葉が混同して使われているようですが、新型だろうと旧型だろうと体内に入ってきた異物を攻撃する免疫力は当然働くでしょう。 免疫が働かなかったら、すべての人がウイルスにやられて死んでしまいますが、ただ、新型の場合、抗体が出来ていないので対処するのに時間が掛かるわけで「新型のウイルスなので抗体が無い」と言うのがより正確な言い方だと思います。「田舎から出て来たばかりの少年なので都会の遊びに免疫が無い」なんて言い方もありますが・・まあ、すぐに抗体が出来ると思います? さて三大疾患という言葉があります。 ガン、心疾患、脳血管疾患ですが、平成28年の統計で、亡くなる人はそれぞれ約37万人、20万人、11万人で、日本全体で亡くなった人が130万人なので約半数になっています。 現在のコロナの死者数とは比べものにならないほど多いわけですが、三大疾患が個人の体内の病変なのに対して、感染症は人から人へ病気が移って行く、健康だった人も移されるとその病気になってしまうのが厄介だし怖いところでしょう。 「あの人は高血圧だから、怖いから近付かないようにしよう」なんて会話は聞いたこともないんですが、現在、感染症で最も大きな被害を出しているのは結核で、毎年、世界で約300万人、日本でも2万人の新たな患者が生まれて、2000人が亡くなっているそうです。 ただ、コロナのように騒がれないのは、抗生物質とか化学療法剤が生み出されて適切な処置を受ければ<治る病気>になったからでしょう。 結核になっても病院へ行けば治る、それでも2000人が亡くなっているわけですが、コロナは今のところワクチンもないし、自分の免疫力に頼るしかない、この自分しか頼れない、助けてくれる物がないところが人によっては大きな怖れになっていると思います・・

 

 

 

 先日、NHKのBS1で、録画して見たので日付も分かるんですが、3月28日だと思いますが、エボラ出血熱とかSARSとか未知のウイルスとの戦いなんて番組を3部作で放送していました。 この番組も何年か前の再放送で、たぶんこういう状況だから特番にしたと思いますが、第1部はアフリカでエボラの感染が始まって、それと戦う医師の姿を追っていましたが、エボラの致死率はおよそ50%、アフリカでは医療設備も整っていないし、自然治癒力で治すしかないと思いますが、完治した人も大勢いて、最後にその証として一人一人賞状を受け取っていました。 これは感動的な場面でしたが、こういうウイルスを押さえこんだ、潜在化させた、または共存状態に入ったと言うべきか、よく分からないんですが、完治した人はかつての自分とは違う人間になっているんじゃないでしょうか? その完治者がその後、どういう人生を歩んでいるかは分かりませんが・・ ただ、この番組で明らかになりましたが、アフリカのエボラ出血熱の感染もたった一人の少年だったか少女から始まったと特定出来たそうです。 野生動物から移ったと思われるウイルスがたった一人に感染して、それが広まり、何千人という死者を出してしまった、これが感染症の恐ろしいところでしょう。 この感染症の拡大を分かり易いように何かに例えてみましょう。 ネズミ算とかネズミ講と言われるものがあります。 ウィキで調べてみると「正月にネズミのつがいがあらわれ、子を12匹産む。そして親と合わせて14匹になる。このネズミは二月に子ネズミがまた子を12匹ずつ産むため、親と合わせて98匹になる。この様に、月に一度ずつ、親も子も孫もひ孫も12匹ずつ産む時、12か月でどれくらいになるかというと276億8257万4402匹となる」 二月に98匹というのは計算が合わないな、146匹じゃないかなと思ったけど、子供がオスとメス半々で、親も含めてそのカップルが交配していくと考えるようです。 数学的には初項2、公比7の等比数列になるそうで、12か月後にはそこら中をネズミが走り回っていることになりますが、現実にそうならないのは自然界では捕食者やその他の環境要因で生まれた子の多くは死に、個体数はある程度の規模を維持するためと説明されています。 感染症の場合も、12か月後に世界中の人が隈なくコロナに感染していることは無いと思いますが、感染しても陽性にならない、または発症しない、治ってしまって抗体が出来た、または集団免疫も出来ることもあるからでしょう。 それでも感染症は広がり出すとネズミ算式に増えて行って抑え込むのが難しくなるから、ベストの方法は感染者が出たら、1分1秒でも早く発生源を封鎖することだと思います・・

 

 

 

 発生源を直ちに封鎖して感染を止めるのは理想ですが、現実には、その患者がウイルスによる感染症だと速やかに診断出来るのか、これだけ交通が発達した社会で人の移動を止められるのかという問題が出て来るでしょう。 中国の武漢から始まった今回の新型コロナウイルスもちょうど春節と重なったこともあって世界に広まってしまいました。 水際対策と言っても、すべての人の行き来を止めることは出来ないだろうし、体温を測っても、感染していても熱が出ない人もいるだろうし、PCR検査をすべての人に施すわけにもいかないし、限界があると思います。 ある程度、感染が広まって病気の人が増えて来て、さあ大変な事になった、どうしようというのが実情だと思います。 未知のウイルスが現れた時にどう対処するのか、国は想定すらしていなかったのかという疑問もあるんですが、ここで感染を短期間で終わらせる方法を論理的に考えてみましょう。 人から人へ移るウイルスは人間の体内でしか生き延びることは出来ないから、外部では生存出来ないわけで、すべての人がお互いに隔離された状態を一定期間保てば、感染は止まることになります。 ちょうど、クマが冬眠する感じで、すべての人が完全に引き籠って関係を絶ってしまえば、どれ位の期間になるか正確には分かりませんが、まず、新型ウイルスを持っていないほとんどの人は、何事も無く終了する、ウイルスを持っている人は、人がウイルスを抑え込むか、ウイルスに殺されるか、二つに一つですが、ウイルスによって亡くなっても、ウイルスも生きて行けなくなるから、そこで感染症は収束するでしょう。 実際には子供もいるし、お年寄りもいるから、家族という単位になると思いますが、人間はクマのように冬眠能力は無いので、その期間を賄えるだけの食料を買い込まなければならないでしょうが・・ 感染は<野火>にも例えられます。「マッチ一本火事のもと」とか「こんなかわいい火だけれど」とか火災予防の標語はたくさんありますが、小さな火が大火災になることも多々あります。 何年か前の冬、新潟県糸魚川市で大火災が起きましたが、一軒のラーメン屋から出火、30時間にわたって147棟に延焼、フェーン現象による強風が吹いていたことと、やはり密集地域だったことが被害を広げたようです。 それとは対照的に隣の富山県の砺波市には散居村があります。 カイニョと呼ばれる屋敷林のある家がかなりの間隔で点在して、この形は防火も兼ねているそうで、仮に一軒が出火して全焼しても燃え広がることはありません。 富山に居たことがあるので見た事があるんですが、まあ、地区の回覧板を回すのも一苦労だとは思いますが・・ 人間は冬眠も出来ないし、国民すべてがカイニョで暮らせるわけではないので、この論理は現実には不可能だし、他の病気で救急車を呼んでも119番が「ただいま留守にしております」とか、泥棒に入られても警察官が引き籠っている、インフラも止まってしまったでは、コロナが収束する前に、生活が終わってしまうでしょう・・

 

 

 

 <人との接触を避ける>のは間違ってはいないと思いますが、「人との接触を8割減らす」が合言葉のようになって、4月16日に安倍首相から全国に向けて緊急事態宣言が出されました。 この要請によって、地方でも打撃を受けていた特に飲食店、観光業界はさらに壊滅的な状況になるのではないかと思います。 全国民に一律に10万円ずつ給付することが決まりましたが、多くの国民にとっては焼け石に水で、定期的に貰えるものでもないだろうし、政府だってその財源をどうするのか、幾らでも金が出せるわけではないでしょう。 早く経済を元の状態に戻すことが先決だと思いますが、この先、日本経済がどうなって行くか、想像するのも恐ろしいんですが、ここでもう一度、冷静に考えてみましょう。 「人との接触を避ける」のは、もちろん新型コロナウイルスに感染しない、または自分が感染しているなら人に感染させないことを目的としていますが、揚げ足を取るようですが、本来「コロナウイルスとの接触を避ける」が正しい言い方だと思います。 人と接触するのが悪いわけではなくて、ウイルスと接触しないようにしましょうと言っているわけです。 人との接触を避けるという表現は相互不信を招いて、社会不安を増しますが、先程、NHKのニュースを見ていたら、4月18日現在、日本の感染者が1万人を超えて、なぜか回復者の数は出て来ませんでしたが、その数を引けば、もっと少なくなると思いますが、この1万人という数字は多いと言うべきでしょうか?少ないと言うべきでしょうか? ニュース画面で感染者の棒グラフが出て来て、それがどんどん伸びて行くのを見て、恐怖を感じる人もいるようですが、日本の人口を1億人として、1億を全体としたグラフを描いたら、どうなるでしょう? 感染者は1万分の1で、見えるか見えないか位の小ささになります。 この1万分の1を多いと見るべきか、少ないと見るべきか、どう考えたらいいんでしょうか? 仮に、統計に表われない感染者が10倍いたとします。 それでも、日本の人口の1000分の1です。 外出自粛要請が出されていますが、1千人の中で陽性は1人、999人はウイルスを持っていないことになるから、999人集まって飲んで騒いだところで何の問題も無いでしょう。 999人は平素とまったく変わらない生活をしていいことになるから、日本経済もほとんど何の影響も無いことになります。 1千人のうち、999人は無罪なのに<推定有罪>扱いされている、一種の冤罪とも言えますが、その冤罪によって日本の経済がガタガタになって行くのを文句も言わず、黙って見ている人が多いのには驚きます。 車を千回運転したら、一回位事故を起こすから車に乗ってはいけませんと言ってるようなもので、そんなことをしたら、地方では人の移動も出来ないし、物流も滞って生きていけなくなるでしょう。 ちょうど、一昔前に問題になった「小学生が見知らぬ人に声を掛けられた」なんて騒ぎで、小学生に道を尋ねたら不審者扱いされたとか、不審者など日本の人口のほんの一部なのに、誰もが小学生に声を掛けるのは止めようみたいな風潮になったのに似ています・・

 

 

 

 ただ、結論から言えば、自粛要請が出て、海外では都市封鎖なども起こって、世界的な大恐慌が始まりそうな危機的な状況に陥っているのも、たった一つのことが出来ないためでしょう。 つまり<誰が新型コロナウイルスに感染していて、誰が感染していないか分からない>それが理由です。 誰がウイルスを持っているか分からない、それがすべての人を推定有罪にしているわけですが、これが一目で分かるようになったら、どうでしょう? ウイルスに陰性の人は、ほとんどは陰性ですが、普段通りの生活をしていいし、陽性の人は、症状が無いまたは軽症の人は自宅で療養する、重篤化しそうな人は病院に入院してもらう、それでOKです。 経済には何の影響もなくなりますが、何日か前のニュースで島津製作所だったか、短時間で新型ウイルスへの感染の有無を検査出来る簡易キットを開発したとか、他のメーカーも競って簡易検査機器を開発しているようです。 たぶん何年後か何十年後かに、再び未知のウイルスの感染が始まったら、未来の感染症対策はこれが中心になるでしょう。 すぐに簡単な検査キットが開発されて、すべての家庭に送られて、自宅で体温を測る感じで感染の有無を調べられる、それはネットで厚生労働省あたりに繋がっていて、陰性なら外出許可証が送られてパスポートみたいにそれを携帯して出歩く。 未来人の方が人間的にも進んでいるだろうから、すべて本人の自主的判断に任されるかもしれませんが、こんな大騒ぎは昔話になるでしょう。 もし未来人が日本史を学んだら「へ〜、21世紀の初頭に感染症が広がった時、まだこんな引き籠りをやっていたんだ!ペストの時代と変わらないな〜この写真見てよ!全員がマスク付けて離れて座って、よく文句も言わずに、この時代の人はお人好しが多かったんだな〜」なんて驚くでしょう。 お人好しと言えば、先日、銀行へ行ってATMで並んでいたら、行員さんが来て「後ろにクツのマークがありますので、そこまで下がって下さい」とか、後日、友達に「まったく屈辱だったよ」と話したら「何が屈辱なの?」と言われて、こちらの方が驚いたんですが、子供はともかく大人でも、基本的人権とか真の自由がまだよく分かっていない、指図されたり制限されることを当り前だと考える人が多いことに驚きます。 ですが、お人好しでは済まされない場合だって出て来るかもしれません。 もし、行政から「あなたはウイルスに感染しているか、していないか分からないから隔離します」と言われたら、仕方ないなで素直に付いて行くでしょうか? さらにエスカレートして政府から「国難だから国民の命と財産を守るため戦争に行って下さい」と言われて仕方ないなと出て行くでしょうか? 戦争と言えば、新聞に週一度、思い出の写真集とかで、よく戦時中の出兵兵士の記念写真を見掛けますが、日の丸国旗やら「出兵祝い○○○○君」とか書いたのぼりとかをバックに、本人と家族と親族が並んでさすがに神妙な顔つきですが、にこやかなのは村長だか隣組の組長くらいですが、目出度いこととされたんでしょう。 現代人が見たら、思わず失笑するでしょうが、笑うに笑えない、同じ過ちを繰り返す可能性も大ありだと思います・・         

 

 

 

 この新型コロナウイルス問題でよく耳にするのは<自分は発症しないのでウイルスに感染したことに気付かないが、高齢者など重篤化し易い人に移す可能性がある、だから若い人も行動を自粛しなければならない>という説明です。 この説明は人道主義に基づいた人命尊重の崇高な意見に聞えます。 ただ、どこがどうと指摘出来ないけれど、何となく違和感を感じる人も多いのではないでしょうか? どこに違和感を感じるのか吟味してみましょう。 何日か前のニュースで南米のブラジルだったか、政府の自粛要請に対して(大統領は自粛に反対しているそうですが?)日雇いで働いている人がこれでは生きて行けなくなると暴動を起こして「自粛するのはコロナに罹って困る人だけでいい!」とシュプレヒコールを上げたそうです。 日本人は大人しいし、過激な行動を取る人は少ないですが「コロナに罹って困る人が自粛すべきだ」という主張は一理あるんじゃないかと思います。 この自粛問題でこんな比喩を用いて説明した人がいました。 子供と若者向けだと思いますが「家の中でおばあちゃんが病気になって寝ていたとします。家の中で遊んで大きな声を出したり、走り回ったら、おばあちゃんの病気がますます悪くなるでしょう。だから、病気が治るまで家の中では静かにしていましょう・・」 もっともな意見だと思います。 ただ、この状態は非常に不健全なものでしょう。 遊び盛りの子供に、家の中で遊び回ったり、歌を歌ったり、大きな声で笑ってはいけないと言っているわけです。 子供の元気がなくなり、それが続けば性格にまで影響が出て来るでしょう。 おばあさんだって心苦しいと思います。 自分が病気になってしまったせいで、孫達が家の中で遊ぶことも出来ない、すぐに親に叱られる、こんな状況が続くなら、いっそ死んでしまいたいとまで思い詰めるかもしれません・・ この比喩がそのままコロナ問題に当て嵌まるか考えてみましょう。 まず、最初の疑問は国とか国民は家族のような結び付きなのか、そんなに強い連帯感が求められるのかというものです。 もう一つは、人間にとって最も重要なことは<生きている>ことなのか、子供の成長や家庭の平和よりも一人の命を生き長らえさせる方が価値があるのかという疑問です。 最初の疑問を日本国憲法で考えてみましょう。 憲法の三原則があります。 基本的人権の尊重、国民主権、平和主義ですが、憲法のどこを読んでも、国民はお互いに助け合って生きて行かなければならないとは書いてありません。 民法の第877条で「直系血族及び兄弟姉妹は、互いに扶養をする義務がある」とされていますが、あくまで血族であって国民同士が扶養し合う義務はないでしょう。 日本は自由主義国家と言われていますが、高福祉型社会を目指している国もありますが、それはそれぞれの国の政策によって、政府が高齢者や社会的弱者をどこまでケアするかという問題であって、すべての国民が自由に行動する権利を持っているはずで、国民同士が扶養し合う義務はありません。 今回の自粛要請も感染症対策として出されたものであって、若い人が高齢者にウイルスを移さないようにしましょうという発言は、あくまで心情的なものであって、法的な根拠は無いんじゃないかと思います。 大震災とかの危機的な状況、またはオリンピックとかサッカーWCなどで高揚状態になっている時、一時的に国民の絆が強まることがありますが、国民に絆を強要することは戦前のような全体主義に立ち帰ることになるでしょう。 最終的には、公共の福祉か個人の自由かという議論になるかもしれませんが、ブラジル国民の「コロナに罹って困る人が自粛するべきだ」という主張は間違ってはいないと思います・・

 

 

 

 さて最後に二つ目の疑問について考えてみます。 <人間にとって最も重要な事は生きていることなのか、一人の命を生き長らえさせることは他のどんな事よりも価値があるのか?>という疑問です。 この問題は人生観、死生観に及ぶ問題で、人それぞれの考え方もあるし、軽々に答えが出せるものではないと思いますが、ここでは、幾つか例を上げて簡単に触れてみます。 職業として考えたら、医者にとっては、人の命を救うことが人生の目的になるでしょう。 現代では人命尊重は最も優先されるべき世界の共通認識になっていますが、1977年のダッカ日航機ハイジャック事件で時の首相が「一人の生命は地球より重い」と語って要求に応じましたが、まさか本当に一人の命は地球より重いと考えていたわけではないでしょうが、命はそれ位の価値があると言いたかったのでしょう。 ただ、この事件からたかだか30数年前、日本は「一億玉砕」とか「生きて虜囚の辱を受けず」とか人命軽視というより人命無視の政権下にあったんだから、変われば変わるものです。 ですが、この人命軽視の考え方は本当に完全消滅したんでしょうか? ウイルスに感染して完治した人がウイルスを消滅させたのか、潜在化させたのか、共生状態に入ったのかよく分からないように、完全に消えてはいないのかもしれません。 陰性になった人が再び陽性に転じることがあるように、再び人命無視政策が広まらないよう注意しなければならないでしょう。 さて、いっきに2400年ほど遡って、ギリシャのプラトンの哲学を参照してみましょう。 プラトンに『ゴルギアス』という著作がありますが、その中でわりと有名な箇所だそうですが、航海術を学んだ客船の乗務員についてソクラテスにこう語らせる場面があります。 「・・この技術はいま言ったように、その人自身もその子供達も、財貨も女たちも、一切合財を安全に救い、港まで送り届けて上陸させておきながら、それだけの大きな奉仕に対してせいぜい2ドラクメを請求するにすぎないのだ。・・自分は航海をともにした船客たちを海に溺れさせないようにしてやったが、そうすることによって、はたして彼らのうちの誰を益し誰に害を与えたことになるのか本当は分からないのだということをね。他でもない、彼は自分が船客たちを乗船した時に比べて、肉体的にも精神的にもより優れた人間にしたうえで上陸させたわけではないのを、よく承知しているからだ・・」 さらに、体を不治の病に侵されている人、邪な心を持っている人が海に溺れなかったのはかえって惨めであり、そのような人々を航海によって安全に運んでやったことなど何ら奉仕をしたことにならない・・とまで語らせています。 この考え方は現代人が聞いたら青くなりそうですが、ただ生き長らえていることなど意味が無い、より良く生きることに価値があると教えたいのでしょう。 その賛否は置いておいて、もう一つ、例を上げてみます。 再び現代に戻って、とは言っても、もう20年も前になりますが『カイジ』(福本伸行著)の中で、コミックなら11巻、カイジが利根川と命を賭けたEカードの勝負をする場面で兵藤和尊の言葉、『カイジ語録』なんて本もあるのでこれも有名かもしれませんが「・・命は一つしかないから大切にせよと、人は言う・・親も教師も・・あらゆる人間がそう言う・・だから、ダメなのだ・・命はもっと粗末に扱うべきなのだ・・命は、生命は丁寧に扱うと淀み腐る・・その点、カイジ君は素晴らしい・・」 この言葉も人命軽視の暴論に聞えますが、完全に間違っているとも言えないかもしれません。 子供は抵抗力が無いから抗菌グッズで守って上げなければと過保護に育てる親もいるようですが、人間は機械やバッテリーとは違って、使えばすり減って消耗していくだけのものではないでしょう。 むしろ使えば使うほど鍛えられて強くなっていく性質もあるし、体力や精神力や免疫力などすべてそのような傾向があることからも分かります。 最後に、岡本太郎の生前の面白い言葉を上げてみます。「幸福とは何か?幸福とは死から遠ざかった状態を言う。安定した会社に入って、結婚して子供も生まれて、ローンだけど家も建てた。皆、健康だし大きな悩みも無い、この死から最も遠ざかった状態が幸福だ。だが、歓喜は違う。歓喜とは死と隣り合わせにある。魂の高揚、生き甲斐による充足感、苦脳を克服する喜び、人間は幸福ではなく歓喜を求めなければならない」 歓喜という言葉は普段あまり耳にしない言葉ですが、ベートーベンの第九くらいですが、歓喜が死と隣り合わせにあるかどうかは分かりませんが、確かに衣食住が満ち足りたいわゆる幸福な状態より、自分が最も熱中することから生まれる心の高揚感により高次のものを感じることは事実だと思います。 いずれにしても<生きている>ことの価値は、いかに生きるべきかという人生観に繋がるもので、何千年も前から思索されて来た問題であり、簡単に結論が出せるものではないでしょう。 それにしてもコロナ問題はいろいろと考えさせてくれます・・ その3を書かなくていいように早く収束して欲しいものです・・

 

 

 あとがき:「ウイルスとの戦い」なんて言葉を聞きますが、そもそもウイルスとは何なのでしょう?ウイルスとは何か、まだよく分かっていないようですが、自らは細胞を持たず、遺伝子をコピーしていく一つの<情報>とも考えられるそうですが、最新の研究によると人間のDNAの中には多くのウイルスが潜在化していて、人間の生命活動を手助けしているウイルスもあることが分かってきたとか。学校が休校になっている若い人は自宅で宿題や課題が済んだら、ゲームより、ウイルスについて勉強してみたらどうでしょう?意外とスゴイことが発見出来るかもしれません・・

 

 

 

    

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

           

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

        

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

sakutk250 * 日記 * 17:51 * comments(0) * - * pookmark

新型コロナウイルス問題から その1

JUGEMテーマ:日記・一般

 

 

  

 

 

 

 3月になりました。 山笑うという春の季語がありますが、草木が萌え始めたのどかな様子を表しているそうだから、時期的にもう少し先でしょうが、1月2月の山が眠っているように感じられるのに比べて、3月になると何となく目覚めて来るように見えます。 熟睡していた山がレム睡眠になって薄目を開けて来る感じですが、山から町へ目を移すと、新型コロナウイルスで大変な騒ぎになっています。 2月27日に安倍首相から、3月2日から春休みまで全国の小中高一斉休校の要請が出て、長野県でもすぐにほとんどの自治体が2日からの休校を決めましたが、2月29日土曜に近くの老舗旅館のおやじさんに会ったら「今朝から宴会の予約のキャンセルの電話ばっかりだよ。こんな田舎、どこにそんな患者がいるんだよ?全然、関係無いだろ?まったく政府はひどいもんだよ。キャンセルする方もする方だけどな〜」なんて実際は方言交えて怒っていました。 マスコミではコロナがトップニュースになって、冒頭に電子顕微鏡で捉えた禍々しいウイルスの拡大写真が出てきたりして、街行く人へのインタビューでも「怖いですね〜、感染しないように気を付けています」「こういう状況だから、ある程度の不便は我慢しなければいけないと思います」なんて意見ばかりで、<欲しがりません、勝つまでは>ですが、たぶん中には「ちょっとやり過ぎないじゃないですか?」「そんなに騒ぐ必要があるんですか?」という意見もあると思いますが、それがまったく出て来ないのは、取り上げられていないのかもしれませんが、不思議です。 首相が会見で「この戦いに勝利を収めるため」と語りましたが、その戦いの相手がどこにいるのか、近くにいるのかいないかさえ分からない状況では、ただ騒いでいるだけで現実感が無い人も多いと思います。 もちろん、ペストとかエボラ出血熱のような強力な病原性を持つ細菌やウイルスが空気感染して、身近な人がバタバタ倒れて死んでいくなら、それは怖いし、最高レベルの対策を取らなければならないでしょう。 そんな状況でのほほんとしていたら最高レベルのバカだと思いますが、今回の新型ウイルスはそれ程の病原性や感染力は持っていないようです。 過去の感染症の歴史を調べてみると、有史以前から人類は感染症と戦ってきたと思いますが、14世紀にヨーロッパでペストが大流行して2500万人死亡、1918年のスペイン風邪で4000万人死亡、恐ろしい死者数ですが、20世紀後半から、病原体や対処方法が明らかになって死者数は激減します。 それでも1957年のアジア風邪で200万人の死者、1968年の香港風邪で100万人が亡くなり、1981年からのエイズで過去20年で6500万人の感染、2500万の死亡、2002年のSARZで9カ月で患者数8093人、774人の死亡が確認されています。 最近では2009年の新型インフルエンザにより世界で18000人以上死亡、日本国内だけで死者数203人とされています。 今回の新型コロナウイルスは、まだ不明の点もありますが、感染力を示す基本再生産数が季節性インフルエンザの1〜2に対し、2.5〜2.6と若干高い程度で、風疹の5、麻疹の18と比べるとかなり低く、致死率も中国で3%、他の地域で0.3%、ただ正確な感染者数はもっといると考えられるので実際にはもう少し低くなるようです。 季節性インフルエンザの致死率が0.1%程度、飛沫感染でもインフルエンザのウイルスがくしゃみで10M飛ぶと言われていますが、コロナウイルスは2Mと言われているので、それ程の違いは無いことになります。 3月19日現在、国内で感染者数914人、死者31人となっていますが、2009年の新型インフルエンザの時、もともと自分は風邪やインフルに無頓着なので、よく覚えていないんですが、そんな騒ぎにならなかったと思いますが、なぜ今回はこんな大騒ぎになっているのか不思議です。 それを不思議だと感じる人がほとんどいないのが、もっと不思議ですが、もちろん、大元はマスコミが大騒ぎしているから、国民もつられて騒いでいるんでしょうが、スマホが普及して誰もが同じ情報を共有するようになったことも一因かもしれませんが、なにか報道出来ない裏の事情があるのかと勘ぐってしまいます。 7月の東京オリンピックを何としても開催しなければならない、それならそれで、はっきりと国民に説明すべきではないかと思います・・

 

 

 

 良い機会なので?ここで細菌やウイルスについて、もう一度、おさらいしてみたいと思います。 ばい菌という言葉があるように、一般に細菌やウイルスは邪魔者扱いされていますが、人間は何らかの細菌やウイルスと共生状態にあって、それらがいなければ、人間は生きていけないでしょう。 そもそも、そのスタートから勘違いしていて、人間は無菌状態が理想だと思っている人もいるようですが、細菌はどこにもいるものだし、スプーン一杯の土には1千万〜1億の細菌がいるそうで、空気を吸っているだけで、1日1万個の細菌が口の中に入ってくると言われています。 細菌や菌類がいなければ、枯れ木や落葉も腐ることがなくなり、土には肥料が無くなるから、植物は育たないし、植物を食べている動物は生きて行けなくなる、人間も同じ運命でしょう。 細菌やウイルスは地球で最古の生命で36億年前に誕生したと言われていますが、ホモサピエンスが現れたのはたかだか20万年程前です。 この時間の差を実感するには金に例えると分かり易いかもしれません。 36億の資産家と20万円しか持っていない若者と言ってもいいと思いますが、人間が細菌やウイルスを活用していると言うより、人間は微生物に上手く使われていると言った方が正確かもしれません。 皮膚にも常在菌と言われる細菌が10種類以上、何百万個もいるそうで、それらが皮膚を病気から守っているので、あまりに手洗いをするとかえって皮膚病に罹りやすくなるとも言われています。 体の中の細菌は大腸の腸内フローラが話題を集めましたが、1.5Mの大腸に何百種類、100兆個、約1.5キロの細菌がいると言われています。 この細菌は便宜的に善玉菌、悪玉菌、日和見菌に分けられていますが、いつも一定の割合で細菌叢を作っていて、この割合が崩れると有害な菌が増えて来るようです。 細菌でもウイルスでも人間にとって病原性のあるものが体内に入って来ると、ただちに体の免疫システムが働いて病原菌を退治しますが、免疫の主役は白血球であり、マクロファージ、ナチュラルキラー細胞、リンパ球があって、この免疫力が自然治癒の元になっています。 それは人類が生き延びることによって、獲得してきた遺伝的形質であって、国に例えれば、強力な防衛力を備えているわけで、決して丸腰でないし、敵が攻めて来ても、それほど心配することは無いってことになるでしょう。 それでも、発病することがあるのは、病原菌の毒性が強い、または数が多い、免疫システムが弱くなっている、腸内フローラのバランスが崩れているなどが考えられます。 熱が出たり、腹が痛くなるのは、その戦いが伯仲していることになりますが、そもそも何故、病原性のある細菌やウイルスがいるんでしょうか? キノコに食用キノコ、毒キノコ、食用でも毒でもないキノコがあるようなものでしょうか? 毒キノコを平気で食べる虫もいるし、ウイルスも野生動物と共生していても、人間の中に入ると悪さをするものがありますが、ウイルスは宿主を殺してしまっては自分も生きて行けなくなるわけで、もともと共存を図ろうとするんじゃないかと思いますが、いきなり住む環境が変わって、ウイルスもどう対処していいのか分からなくて暴れてしまうのかもしれません。 ウイルスは生物とは言えないし、生き延びようとする<知性>を持っているのかという疑問もありますが・・ 細菌やウイルスに関しては、もともと人間はそれらと共存しているし、免疫力を持っている、放射線や紫外線を浴びるのとはまったく違うことは押さえておくべきでしょう。 樹木がキノコと助け合って生きているのに似ていますが、むしろ、積極的に自然の中へ出て行って活動するのが、抗体を作ったり免疫力を高めることに繋がると思います・・

 

 

 

 さて、今回の新型コロナウイルス問題でいろいろ考えさせられることがあったので、それを幾つか書いてみたいと思います。 3月19日現在、海外でも感染の拡大が続いていて、いっこうに収まる気配が見えないし、どのような結末になるか予想出来ませんが、日本人の基本的性質は戦争をしていた頃とほとんど変わっていないんじゃないでしょうか? こういう言い方は少々傲慢に聞えるかもしれませんが、政府とマスコミの報道をそのまま鵜呑みにして大騒ぎをするのは、軍部と新聞社による大本営発表を信じて突き進むのと結局、同じことではないでしょうか? 戦時中と戦後の考え方は<戦争賛成>から<戦争反対>へ180度、振り子が変わったわけですが、振り子自体は変わっていない、皆が同じ方向になびいてしまうのは、日本人の国民性かもしれません。 もちろんすべての日本人がというわけではないし、日本だけの問題でもないと思いますが、今回の騒動で<正しく怖れる>なんて新語が出て来て、なかなか良い言葉だと思いますが、新型ウイルスに限らず、回りが怖れているから、自分も怖れるのでは、子供がお化けを怖がるのと大差ないでしょう。 今回の件なら、まずなすべき事は、新型コロナウイルスがどのようなもので、どれ位の危険性があるのか、自分で正しく理解することでしょう。 正しい理解があれば、それなりに冷静な対応が出来ると思いますが、正しい理解が出来ない、もっと言えば、正しい理解をしようとしない人が少なからずいることに気付きました。 なぜ正しい理解をしようとしないのか? 思うに、一番の理由は、何かを理解するのは、ある程度の<努力>が必要だからでしょう。 努力は、その事に興味があれば、ほとんど苦痛を伴わないと思いますが、さほど関心がない事柄だとやはり苦痛を感じます。 このちょっとした苦痛から逃れるために、付和雷同してしまうのかもしれません。 もう一つ考えられるのは、日本人の心の中には未だに<和を以て貴しとなす>という精神が中枢神経のように流れているんじゃないでしょうか? 和を以て貴しとなすと言うと、両手で笏を持った1400年も前の聖徳太子がすぐ出て来ますが、なるべく対立したくない、出来るだけ仲良くやろうという気持ちが自然に一つのまとまりを作ってしまうことが考えられます。 そして三つめとして、今回初めて気付いたんですが、民主主義の多数決の原理の弊害があるのかもしれません。 現在、政治は議員代表制によって行なわれていますが、一般の人は普通は投票という形でしか政治に参加出来ませんが、投票を棄権する人も多いし、政治的決定は議員の多数決で決められることになります。 この他人任せの状態が今回のコロナウイルス問題でも、大多数の意見に従っていればいいんだという態度に繋がっているんじゃないでしょうか? よく分からないけど、多数の意見に従っていれば何とかなるだろうという安易な気持ちは、仮に今回は何とかなっても、非常に危険な態度だと思います。 それは先の戦争で十分思い知らされたことですが、一人一人が正しく怖れる努力が何より大切になるでしょう・・ 

 

 

 

 2月27日に安倍首相が全国の小中高校の3月2日からの一斉休校の<要請>を出して、この時、自分は要請がどれ位の法的拘束力を持っているのか知りませんでしたが、翌日、首相が「休校は柔軟に対応を」に変えて、なぜ一緒に言わなかったのか、時すでに遅しで、ほとんどの学校が3月2日からの休校を決めていました。 後から分かったことですが、首相の要請はアメリカや韓国の大統領令と違って、法的な拘束力は無く、あくまで要請、お願いであって各自治体の判断の余地が残されているとのこと。 全国の自治体の中にはこの要請に従わなかったところもあって、休校日をずらしたり、休校措置を取らなかった学校もありました。 この自治体の対応の是非はウイルスの感染という観点からは後になってみなければ分かりませんが、要請の意味をよく理解していた、右へならえではなく、自分達で判断したという点では立派だと思います。 ここで失望したのは、やはりマスコミの態度です。 3月2日からの要請が発表されるや、まず自分達が慌てふためき、学校や家庭や自治体の混乱ぶりを取材して、それをテレビで大々的に流して号外まで出ていました。 この時、要請の意味をきちんと視聴者に伝えようとした放送局があったでしょうか? 残念ながら、自分は聞きませんでした。 マスコミは当然、この意味が分かる有識者を抱えているはずだから、まず冷静に「首相の要請は法的拘束力のあるものではありません。各自治体の判断の余地が残っています」と国民に伝えるべきだったと思います。 国民と一緒になって騒いで、混乱ぶりを伝えているだけでは、ただの情報屋でしょう。 マスコミが国民に信頼される第4の権力を目指すなら、国民が正しい理解が出来るようサポートしていく努力が求められると思います。 さて今回、学校の休校だけでなく、隔離とか外出自粛とか集会の禁止とか施設の使用制限とか聞き慣れない言葉が出て来ていますが、今までほとんど経験した事が無いもので、戸惑っている人も多いと思います。 日本国憲法では、居住や移転や外国への移住の自由、集会の表現の自由などが認められています。 今まで誰でも、当然のように、好きな場所へ出掛けて、面白そうなイベントがあれば参加して、様々な施設も利用していたと思いますが、ただ憲法でも<公共の福祉に反しない限り>という条件文が付いています。 今回、新型インフルエンザ等対策特別措置法が可決されましたが、それはこの公共の福祉を優先させるものでしょう。 個人の自由と公共の福祉の線引きは難しいものだと思いますが、そもそも日本の首相にアメリカや韓国の大統領のような大きな権限が与えられていないのは、先の大戦での強権支配に対する反省があるからでしょう。 特措法の「緊急事態宣言」がなされると、都道府県の知事は様々な指示が出せるようになりますが、人権に対する過剰な制限になるという反対意見も根強くあります。 この問題に関して、ヤフーニュースに載っていたある記事を参考にしてみます・・ 

 

 

 

 3月2日のヤフーニュース「街中で体温検査『新規感染者ゼロの街』新型コロナ封じ込め徹底する中国・南京を歩く」というタイトルで、投稿した人は南京市に住む番組プロデューサーという日本人。 南京市は人口850万の大都市ですが、12日間連続で新規感染者ゼロを達成したそうで、その封じ込め対策が書かれていました。 <2週間の強制隔離システム>南京市では国内外を問わず外部から市内に入って来た人は隔離生活をしなければならない。自宅待機中はマンションの管理人が指定した食材を届けてくれる。知人が訪れる時は感染情報アプリに、氏名、身分証番号、武漢渡航の有無、何月何日にどこにいたかなどを細かい情報を登録し、誓約書にサイン、体温を測ってようやく許可が下りる。<人と接触しない飲食店>2週間の自宅待機を終え、外に出ると街から人が消えていた。南京市では現在ほぼすべての飲食店が店を閉めていて、開いているのはファーストフード店くらい、注文して外で品物を受け取るか、デリバリーサービスになっている。<交通機関では>南京市には10路線の地下鉄があるが、改札の手前に検査官がいて体温検査が義務付けられている。乗車後には窓に張られたQRコードへアクセスして、何時に何号線の何号車に乗ったか登録しなければならない。感染者が発生した際に感染ルートをたどれるようにするためである。<驚きのオンライン学習>南京市は教育熱が高く、1月下旬に新型コロナが蔓延し始めると、すぐにすべての学校を休校にし、すばやくオンライン学習に切り替えた。南京にいる何千人もの教師が持ち回りで授業動画を制作し、子供達は好きな時間にアクセスして授業を受ける。質問はメールで、宿題の正解、不正解のチェックも出来る。<会社再開の厳しい条件>2月初旬に中国政府が企業活動を大幅に制限したが、再開するには南京政府が指定した感染防止グッズをすべて揃えなければならない。再開出来ても、さらに厳しい管理は続く。毎日、社員全員の体温を測り、行動記録を付けさせ、すべて政府に報告しなければならない。 最後に、著者は<スピード重視の感染対策>として、私が中国に来て感じる政治・経済・社会の特徴はスピード重視である。決断と実行がとにかく早い。そんな中国から見ると日本は常に後手後手に回っているように見える。私も2週間の隔離を言い渡された時、「そこまでやる必要があるのか」と思ったが、結果的に新規感染者ゼロを達成している現状を見ると、彼らが正しかったと今は思っている。回りを見ても「プライバシーの侵害だ」という声は上がってこない。プライバシーより命の方が大事だと考えているようだ・・と結んでいます。 この投稿を読んで、どのように感じるでしょうか? 中国政府の対応が早いのはやはり一党独裁政治だからでしょう。 南京市でもこのような管理が永遠に続くわけではなく、感染が収まれば解除になると思いますが、ほとんどの日本人は「やり過ぎだ」と感じると同時に、何か空恐ろしいものも感じるんじゃないかと思います。 ジョージ・オーウェルの『1984年』のビッグ・ブラザーを彷彿させますが、「プライバシーより命が大事」とのことですが、一言いうなら、新型コロナに感染しても、健康な人なら、何日か安静にしていれば自然治癒する程度のものだし、極端な話、新型コロナに罹って体の中に抗体を作りたいという<自由>はまったく無くなるということでしょう・・ 

 

 

 

 次に、いわゆる<風評被害>について書いてみたいと思います。 コロナウイルスの蔓延で、外国産のコロナビールの売り上げが落ち込んでいるそうで、聞いた時は笑ってしまいましたが、コロナと名の付く商標の売り上げが落ちているそうで、ゼロにはなっていないから、世の中にはそんなこと気にしない人もいるわけで、それはせめてもの救いです。 ただ、笑い話で済まないのが、長野県の牧場に勤めていた女性が大阪のライブハウスでコロナウイルスに感染して、牧場もライブハウスも閉鎖、その牧場の経営者は村の商工会長をしているそうですが、新聞にも名前が出てしまって「牧場はつぶれるかもしれない」と語っていました。 長野県の牧場で牛を飼っている50代のおばさんが大阪のライブハウスへ通っていたのも驚いたんですが、これは気の毒です。 牧場が悪いわけではないし、その女性だって悪いわけではない、ライブハウスにウイルスを持った人がいて移ってしまっただけで、もちろん、そのライブハウスだって悪いわけではなく、むしろみんな被害者でしょう。 なぜ、つぶれなければならないのか? ほとんど災害に遭ったようなものですが、ダイアモンド・プリンセス号で検疫作業をした人が職場に戻ってから感染者扱いされたとか、陽性反応が出た人が隔離された病院の看護師の子供がいじめに遭うとか、そんな理不尽な事は許されることではないでしょう。 もともと、ウイルスは寄生している生物の細胞の中でしか生きられないし、空気中で2〜8時間、乾燥していれば24時間、凹凸の多い表面で8〜12時間、凹凸の少ない表面で24〜48時間生存しているそうですが、その牧場は消毒が済んで、とっくにウイルスは消えているだろうし、隔離した病院は感染防御を徹底するだろうから、スタッフがウイルスに感染することなど有り得ないでしょう。 たぶん、差別する人もそれ位の理屈は分かっているでしょう。 そこにウイルスはいないことは分かっている、ではなぜ差別するのか? これは<理性>ではなく<気分>の問題ではないでしょうか? 東日本大震災で、3月11日は震災から9年目でしたが、放射線が漏れて、福島産の農産物は放射線検査をしなければならなくなった、その検査に合格して安全だと分かっていても、やはり福島産を買うのはためらってしまう人がいるのと同じでしょう。 「ためらってしまう人がいる」と書きました。 ですが、自分の心を覗き込んでみると、自分だってそういう気持ちがあることに気付きます。 その牧場やライブハウスや病院へは、ちょっと近付きたくないなという気持ちがあります。 これは偏見と言うべきでしょうか? さきほど笑ってしまったコロナビールで考えてみましょう。 コロナビールがコロナウイルスと関係が無いことは誰が考えても明白です。 唯一の共通点は「コロナ」という言葉ですが、突拍子もない意見ですが<言霊>のような意識があるんじゃないでしょうか? 言霊は言葉に宿っている不思議な霊威と訳されますが、言葉が現実の事象に対して何らかの影響を与えると信じられ、良い言葉を発すると良い事が、不吉な言葉を発すると凶事が起こるとされるものです。 日本は言霊の幸ふ国とされ、結婚式での忌み言葉も言霊思想の名残りですが、「和を以て貴しとなす」が今でも生きているのと同じように、言霊思想も心のどこかに残っているのかもしれません。 コロナという言葉が今、不吉なものになっている、コロナという名前の付く物から遠ざかりたいという気持ちです。 この気持ちは牧場やライブハウスや病院にも当て嵌まるでしょう。 不吉なウイルスがいたような場所からは離れていたいという平穏を望む気持ちですが、この気持ちは偏見とまでは言えないんじゃないかと思います。 もちろん、差別するとかいじめるなど許されることではありませんが・・ では、どうしたらいいのか? <忘れる>のを待つしかないかもしれません。 ずいぶん消極的な方法ですが、日本人は特に忘れっぽいし、自然に忘れて行く、すぐに、そういえばこの牧場でそんな騒ぎがあったなあなんて事になると思います。 この<忘れる>ことは良いことなのか、良くないことなのか、これは意外と難しい問題だと思います。 過去の災害の記憶を風化させないとか、1000年経っても変わらないと語った韓国の大統領もいましたが、この<忘れる>問題はまた別の機会に考えてみたいと思います・・

 

 

 

 昨年、令和元年の秋に台風被害があって、今年に入って新型ウイルス問題が起こり、世界的パンデミックの表明もあり、まだ収束する見通しは立っていませんが、こんな事を予想出来た人はいないと思いますが、やはり未来の予知は難しいと感じます。 蹴られたサッカーボールがコートを真っすぐに転がって行くのではなく、ラグビーボールのように弾んで行く、どちらに転がるか分からない状況です。「人間万事塞翁が馬」という諺がありますが、幸か不幸か、思わぬ副次効果も出ているようです。 満員電車や会社内での感染予防のため、企業がテレワークを導入したり、それは働き方改革にも繋がるだろうし、登校出来なくなった子供達がインターネットを通じて勉強するとか、毎日教室で机を並べて一斉授業を受けなくてもいいのではないかという反省にもなっているようです。 ただ、今回気付いたのは、世界はすでにグローバル化が相当に進んでいる、相互の結び付きが強まっていて、この流れを後戻りさせることは出来ないということです。 観光から始まって、工業でも隣の国で生産された部品を使って、自国で製品に仕上げて輸出するなど、相互依存が深まって、自国内の取引とほとんど変わりがない状況になっている、この事を理解するなら、もはや<戦争>など出来ないことが分かると思います。 相互依存だけではなく、自国の企業だって隣国に進出しているんだから、隣国を攻めることは、自国を攻めるのと同じことになるはずです。 特に感染症の拡大や環境問題は一国でどのように出来るものではなく、世界各国の協力が欠かせないでしょう。 ここで国内に目を向けると、自粛要請で、日本の経済が大きなダメージを負っています。 冒頭にも出て来ましたが、ホテルや旅館の観光業、飲食店などの接客サービスに大きな影響が出ているようです。 自粛とは活動をやめることで、人や物や金の動きを止めることになるから、身体で言えば、体の中に血液がスムーズに回らなくなる、血液が滞る部位も出てくるから、壊死する箇所が生まれて、体全体に悪影響が広がることになります。 3月19日現在、新型ウイルスの感染者は国内で914人、死者が31人、回復者数191人になっていますが、失業や倒産で苦しむ人、あるいは自殺者が出て、この数字をはるかに上回ってしまったら、政府はどう責任を取るのでしょう? 健康な人なら、仮に感染発症しても1週間も安静にしていれば回復するでしょうが、倒産から立ち直るのは至難の業になります。 健康被害より経済被害の方が大きいなんて本末転倒の結果になるかもしれません。 大きな集まりを自粛することは、まず、自分自身が感染しないことを目的としているでしょうが、これは他人を感染しているのではないかという疑いの目で見ることになります。 社会全体に相互不信が広がり、閉塞的で希望の見えない戦時中のような気分を生み出すでしょう。 現在、感染者が914人、実際にはもっといるかもしれませんが、仮に1万人いても、日本の人口の1万分の1です。「体調の悪い人は外出を控えて下さい」くらいの呼び掛けで十分だと思います。 この騒動を見ていて、思い出すのは「小学生が見知らぬ人に声を掛けられた」とか「北朝鮮のミサイル発射」のニュースです。 一時期、連日のように騒いでいましたが、あれは一体、どうなったのでしょう? この新型コロナの最中にも北朝鮮がミサイルを日本海に飛ばしましたが、新聞の片隅に載っただけでした。 騒ぐのにも飽きたということでしょうか? 特に奇異に感じるのは、この問題は被害の様子が実際には見えないことです。 一部の医療関係者や家族以外、コロナウイルスの患者と接している人はいないと思いますが、台風や地震の被害が現場へ行けば自分の目で見れるのに対して、どこで何が起こっているのか分からない、本当に起きているのかどうかも定かではない状態です。 まさか、政府やマスコミがデマをでっち上げていることはないでしょうが、案外、このウイルスについてまったく報道しなかったら「今年は風邪だかインフルエンザが流行っていて寝込む人が多いから気を付けよう・・」位で終わっているかも知れません。 まあ、こんな言い方をしたら怒られるかもしれませんが、毎年、風邪やインフルエンザで多くの人が亡くなるわけだから、実際には同じことでしょう。 デマで思い出すのは、イギリスのSF作家、H・G・ウェルズの『宇宙戦争』です。 20世紀に入って火星人が地球に到来して侵略を始めるストーリーですが、1938年にアメリカのラジオ番組でハロウィン特別番組として放送されて、音楽中継の途中で臨時ニュースとして火星人の侵略が伝えられると、それを事実だと思い込んだ多くの人々がパニックに陥り、死者まで出てしまったとされる事件です。 この事件は映画化されて、その番組をテレビで見た事があるんですが、ラジオ局の放送によって混乱と恐怖で右往左往する人々の姿は、映画を見ている側にはほとんどコメディでした。 そういえば、小説の『宇宙戦争』で軍隊は全滅してしまいましたが、最後に火星人をやっつけて地球を守ってくれたのは微生物でした。 火星人は地球の細菌やウイルスにまったく耐性が無かったわけですが、人間はもともと感染症と戦う免疫機能や自己治癒力を備えて共存しているし、どんな状況でも、やはり<正しく怖れる>ことが求められるのではないかと思います・・ 

 

 

    

  

 

 

 

 

 

 

 

 

     

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

     

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

sakutk250 * 日記 * 16:33 * comments(0) * - * pookmark

野生の思考とAI思考 その8

JUGEMテーマ:日記・一般

 

 

    

 

 

 

 

 令和2年になりました。 12月は忘年会、1月は新年会のシーズンですが、そんな名称に関係なく、自分は一年中飲んでいますが、新聞に休刊日があるんだから、体も休肝日を作った方がいいんじゃないかとは思っていますが・・ なぜ人間は酒を飲むのか、もちろん酒など一滴も飲まない人もいるし、動物は酒は飲みたがらないと思いますが、志賀高原に風呂に入る猿がいますが、前回のブログで人間の体は個体なのか液体なのかという話が出て来ましたが、案外、体を液体状態に戻したいという無意識の欲求が働いているのかもしれません。 昼間、ガチの仕事をして来て、夜、酒を飲んで、ほろ酔いになってユラユラして来る、このリラックス感を求めている、そう考えれば、タバコはさらに気体的な気分を味わっているとも言えることになります。 自分はタバコは吸いませんが・・ 信州の佐久は酒蔵が多くて、今、13の日本酒酒造があるそうで、コラボで「SAKU13」なんて洒落た名前の酒を造っていますが、前に一度買って飲んでみましたが、正直に言って、それほど感動的な味では無かったと思いますが、酒造りに関してはワンチームが良い成果を上げるとは言えないようです。 日本酒の酒造は国内には1400以上、銘柄は一万以上あるそうで、凄い数ですが、それでも年々少なくなっているようです。 酒はその地方の文化とも言われますが、一万の銘柄といえば、ラベルは元より同じ味のものは二つと無いだろうから、一万色の色彩表を眺めるように一万の個性があるということでしょう。 その中でどれが一番美味しいかという判断は難しいし、不可能ではないかと思います。 あえてトライしてみるなら、まず一万の日本酒を飲んでみなければならないでしょう。 一日に10銘柄飲んだとしても、3年近く掛かるわけで、3年前に飲んだ酒の味と正確な比較は出来ないでしょう。 その前にアル中になりそうですが・・ 味覚は視覚や聴覚と違って客観性にも劣るから、同じ酒を飲んでも、その時の体調とか気分で美味くも感じるし、平凡な味にも思える、個人的な好き嫌いもあるでしょう。 さらに味覚は<暗示に掛かりやすい>ことも上げられると思います。 「この純米大吟は磨き3割で1万もするんだよ」とか「幻の酒って言われるレアものでやっと手に入ったよ」とか「これ飲んで不味いって言うやつは人間じゃないよ」とか、酒を飲む前に言葉に酔ってしまいそうですが、そう聞いて飲むと美味い気がしてくるから不思議です。 最近の学生の読書感想文のように自分の感想とネットのコピペの感想が入り混じって、どれが本当の感想なのか分からなくなってしまう感じですが、『脳はバカ、腸はかしこい』(藤田紘一郎著)という本の中に、脳はだまされ易いけれど、腸は真実が分かっているなんて話が出て来ます。 自分も最近、気付いたんですが、本当に美味い酒は頭ではなくて体が分かっているんじゃないか、美味い酒はウィスキーでも芋焼酎でも<減るのが早い>気がするし、この酒は高いしレア物だし美味いはずだなんて観念があってもなかなか減らない酒は美味くはないんでしょう。 つまり頭より体のほうが真実が分かっていることになりますが、これは服飾にも当て嵌まるかもしれません。 この服カッコいいななんて、3万も出して買ったけど、全然着ないとか、見た目ではいいと思うけど、何となく着たいと思わないのは、体が似合わないと感じているんでしょう。 何故なのか、その理由がよく分からない、脳はバカ、体はかしこいということになるかもしれません・・

 

 

 

 もう一つ、価格について考えてみます。 <高い酒は美味い>そう言い切れるかどうか分からないんですが、価格というのは経済学では需要と供給の均衡で決まることになっていますが、企業は利益を出すことが目的だから、製品がどんどん売れるなら生産を増やすと思います。 値崩れしない程度まで増産すると思いますが、酒造によっては、自社の酒が人気が出ても生産を増やさないことがあるから、供給が一定で需要が高まれば、当然、価格は上昇することになります。 転売なども起こるから、その製品に見合った価格ではなく、プレミアが付いたとんでもない価格に跳ね上がることもあるでしょう。 このような場合、高い酒がそのまま美味いとは言い切れなくなりますが、正規の値段で売られている酒について考えてみましょう。 よく友達と料理屋で、調子に乗って高い酒を頼んで、飲みながら話すんですが、2倍の価格の酒は2倍美味いと言えるでしょうか? 味覚を数値で表すことは出来ないと思いますが、酒を飲まない人でも想像出来ると思いますが、どうひいき目に見ても、2倍の値段の酒は2倍まで美味いとは言えないと思います。 数値では表せませんが、せいぜい2〜3割増しの美味さと言うのが妥当だと思います。 分かり易いように、スコッチを例に上げてみます。 8年物のスコッチが3000円で売られていたとします。 同じ銘柄で、12年物が9000円、18年物が27000円で売られていた場合、12年物を買う金で8年物は3本、18年物なら9本買えることになりますが、12年物は8年物より3倍美味いと言えない以上に、18年物は8年物より9倍美味いとは言えないんじゃないかと思います。 価格がどんどん上がるにつれて、味わいはそれほど上昇して行かないという言い方が出来るでしょう。 つまり、横軸に価格、縦軸に美味さをとった場合、価格が上がるにつれて美味さも増して行くけれど、その上昇幅はだんだん小さくなって行く成長曲線のようなグラフが描けるんじゃないかと思います。 もちろん、スコッチ通の人に言わせれば、何倍なんて見方ではなくて、その微妙な味わいにそれだけの価値があるんだという主張になると思いますが、その微妙な味を楽しみたい人はそれだけの金を払って高い酒を買えばいいということでしょう。 この傾向は酒だけではなく、例えば各家庭の収入にも当て嵌まるんじゃないでしょうか? 年収が250万の家庭と500万の家庭では、はっきり言って格差があると思います。 500万の家庭はそこそこゆとりがあるでしょうが、250万の家庭はキツキツでしょう。 ですが1000万の家庭と2000万の家庭はそれほどの違いは無くなるんじゃないでしょうか? 1億と2億でさらに差が無くなるだろうし、極端な話、資産1兆円の人と2兆円の人ではもう生活に違いなど無くなるでしょう。 つまり収入が増えるにつれて、投資したり浪費したりすれば別ですが、生活して行く上で、余剰分が増えてきて、使い道が無い金が貯まってくると言えるんじゃないかと思います。 ここで話をスイッチしますが<豊かさ>とは何でしょうか? 豊かさの定義でよく聞くのは<やりたい事がやりたい時に出来る、それが真の豊かさだ>という言葉です。 自分が何かをやりたいと感じた時にすんなりやりたい事が出来る、確かにそれが豊かさかもしれません。 どれほど金があっても、常に金の心配をしていなきゃいけないとか、時間に追われてやりたい事も出来ないというのでは、とても豊かとは言えないでしょう。 そう考えれば、金が無くても豊かさを感じることは出来るし、例えば、自分が好きな秋のキノコ採りやら地蜂捕りなど金など持たなくても出来ます。 もちろん、現代社会では金が無ければ文化的生活は出来ないし、生きて行くことも難しくなりますが、やはり金は豊かさのための一つの手段だということでしょう・・ 

 

 

 

 さて本題の「野生の思考とAI思考」に戻ります。 今回のその8で最終にしたいと思いますが、AI技術が進歩するにつれて、個人の生活が影響を受けると同時に、社会の仕組みも変わってくると考えられます。 現在、農業分野や医療現場、物流業界などで人手不足もあってAI化が進められていますが、企業が効率化のために積極的にAIやロボットを活用していけば、人間の仕事が奪われるのではないか、AIを使う側とAIに使われる側に社会が分断されてしまうのではないかと懸念されています。 もちろん、これは現在の予想であって、AIが進出してきても、残る仕事はあるだろうし、新たに派生する仕事もあると思います。 もともと、未来の予想はなかなか当たらないものだと思いますが、未来のことが8割方分かるなら、毎日あくせく働かなくても、一日に何分かパソコンの前でトレーディングしているだけで、優雅な暮らしが出来るでしょう。 未来の予測は、例えば、海洋で小さな帆掛け舟に乗っていて、何時間後にはあの地点にいると言っているようなもので、その時の風向きから計測したものだから、これから風向きがどう変わるか分からないし、海流の影響を受ける可能性もあるし、ある程度は自分で操船も出来るから、全然予想も出来なかった地点にいることもあるでしょう。 少子高齢化が進んで、近い将来、日本の人口が1億人を割り込むと推測されていますが、この予想だって、国民の間で、子供を育てることが人生の最大の生き甲斐だなんて意識変化があれば変わってくるだろうし、人口減少に危機感を抱いた政府が、老後保障を削って極端な子育て優遇策をとったなら、チャウシェスクの子供達ではないけれど、子供が増え過ぎて困るという事態に陥る可能性だってあります。 未来の予想はそれだけ難しいものだと思いますが、AI関連の本で書かれているような事態が起こったと仮定します。 仕事を奪われた人が増えて、それが大多数になったとしても、もし民主主義が正常に機能していれば、それほど困らないんじゃないでしょうか? 民主主義の基本は多数決の原理だから、大多数になった失業者は自分達に有利な政策を掲げる政党を支持するでしょう。 その政党が政権を取ることになるから、その政策を実現する可能性が高いと思います。 例えば、ベーシックインカムが再び注目されていますが、ベーシックインカムについては、ブログでも何度か書いていますが<すべての国民に無条件で定期的に与えられる生活費>ですが、このような生活保障が実現することになるでしょう。 ただ、ここで問題になるのは、AIを使う側、社会をリードする人達のスムーズな賛同が得られるかだと思います。 社会の中心的な役割を担う人達が少数派になったとしても、社会的パワーを持っているし、当然、政治的な影響力も大きいでしょう。 ベーシックインカムの実現のためには財源を増やさなければなりませんが、累進課税の大幅な引き上げ、または法人税への累進課税の導入なども検討されているようですが、その影響をもろに受けるのは、いわゆる富裕層であって、社会の中心的少数派の同意が得られなければ実現は難しいと思います・・

 

 

 

 さきほど、酒の話から、収入と効果は成長曲線を描く話が出て来ましたが、収入が多くなればなるほど金の使い道が無くなっていくという話ですが、もしこの事実を富裕層がきちんと認めるなら、より多く税金を払っても構わないことになるでしょう。 ただそうは言っても、頭では分かるけれど、自分が稼いだ金をやすやすと手放したくないのが人間の本性でしょう。 「金は持てば持つほどますます持ちたくなる魔性のものだ」そうですが、自分は金持ちではないので、その気持ちは分かりませんが、例えば、世界には日本よりはるかに貧しい国がある、あなたのお金があれば、多くの人を助けることが出来るから、毎月1万円ずつ寄付して下さいと言われて、OKする人は少ないと思います。 「日本政府に頼んでくれ」ってはぐらかすしかないけれど、ここでこんな話を参考にしてみたいと思います。 ずいぶん前ですが、テレビのドキュメンタリー番組で、見るとはなし、聞くとはなしに聞いていたので、正確ではありませんが、アメリカのどこかの州の何とかという町で、高額所得者が住む地域と貧しい人の地域があって、それなりに仲良くやっていたけれど、だんだんと高額所得者から、なぜ自分達の多くの税金が税金も払わない人達のために使われなければいけないのか不満が出て来たそうです。 そこで富裕層の住む地域をその住民や関係者しか立ち入れないようにして、独立した自治を行なう特別なコミュニティにしたそうです。 日本でそういう事が出来るかどうか分からないんですが、さすが自由の国アメリカですが、その地区の回りに警備員を置いたり、閑静なコミュニティが出来て上がって、最初はみんなが喜んでいたけど、だんだんとそのデメリットも分かってきた。 以前は公立の学校へ通っていた子供達も遠く離れた私立の学校へ通うようになって、同じ町の子供達と遊べない、貧しい地域ではゴミの収集もままならなくなって、敵対心を抱く人が増えてきて、安心して外出も出来ないし、さらに誘拐事件まで起こるようになってしまった・・ およそそんな内容で、その後、その町がどうなったかは知りませんが、社会はお互いの関係で成り立っているから、富裕層が富を独占して貧しい人達を分断してしまうことは、廻り廻って自分達も不幸になるということでしょう。 「最大多数の最大幸福」という言葉がありますが、富裕層の富だって元々は多くの人々から得たものだろうし、貧しい人々に還元して、社会全体を豊かにすることが、結局は自分達も幸福になる道ではないかと思います・・

 

 

 

 さて、AIやロボットが社会に大きく進出して来て、AIを使う人々、人間にしか出来ない仕事をする人々、AIと共生して仕事をする人々、または失業してしまったけどベーシックインカムなどの社会保障で生きている人々と分かれて来たとします。 その新しい社会の仕組みがそれなりに安定して来たなら、人々の仕事や生活はどのように変化するでしょうか? 産業革命以後、機械化が進んで、人間は<単純肉体労働>から解放されるようになってきましたが、AI化が進むと<単純知的労働>からも解放されるんじゃないでしょうか? 現在、社会人にとって<仕事>は生活の中心になっていると思いますが、働かざる者食うべからずってことでしょうが(この言葉は働けるのに働かない人を指していて、働きたくても働けない人は含まれないと解釈されるそうです。または、社会主義のレーニンの言葉として不労所得で荒稼ぎする資産家を戒めたもので、能力に応じて働き、必要に応じて受け取るという労働の理想も込められているようです)平日は朝から出勤して一日の大半を職場で働いて、夜、家に帰る、週末は1〜2日、自由な時間で趣味や家族と一緒に過ごす、個人差はあるでしょうが、仕事が人生の中心になっていることは変わらないと思います。 これは家の中にいる主婦も変わらないでしょう。 家事や育児をしなければならないから、やはり毎日仕事をしていることになります。 この仕事と言われるものをもう少し詳しく見てみると、もちろん世の中にはクリエイティブな仕事に就いている人もいるだろうし、同じ仕事をしていても状況の変化に伴って対応も変えていかなければいけないと思いますが、仕事の大半は職種や役職や会社の大小にかかわらず単純知的労働ではないかと思われます。 毎日同じ職場へ行って同じ様な事を繰り返している、特に現代は専門化や分業化が進んでいるから、その傾向が強まっていますが、何か創造的な試みをする機会などほとんど無いのが実情だと思います。 一例として配送業務を上げてみます。 お客さんから注文を受ける、その商品を間違いのないように揃える、伝票に金額を書き込む、その商品をお客さんの家に届ける、集金または正しく振り込まれているか確認する、たまにお客さんからクレームが届くけどマニュアルにしたがって応対するなど、これらの一連の行為はすべて仕事と呼ばれるでしょうが、どれもが単純知的労働、正確には単純知的肉体労働と呼ぶべきものだと思います。 誰もが「仕事とはそういうものだ」と思い込んでいるんでしょうが、最も人間らしい能力を発揮していない、真の人間らしさから外れた生き方をしている、けれどその事を忘れてしまっている状況だと思います。 このブログシリーズで、ショーペンハウアーの哲学が出て来ましたが、世界は表象としての見方と意志としての捉え方があるという哲学ですが、表象としての見方には、理性的な知性が対応しているし、人間の脳では上手く生きるための大脳が受け持っていますが、それはAIに十分置き換えられる分野でしょう。 それに対して、高度な意志としての捉え方、これは感性的な知性で、より良く生きるための前頭葉が受け持っていますが、生物ではないAIには理解不能な分野だと思います。 つまり、社会のAI化が進むと、単純知的肉体労働は人工知能やAIロボットに替わって行く、人間は今まで開拓出来なかった最も人間らしい能力を発揮する仕事に就くチャンスがどんどん増えてくるということでしょう。 これは失業してベーシックインカムで生活している人の方が大きなチャンスになるかもしれません。 なぜなら、最低限の生活費が保障されて、その上、自由な時間は幾らでもあるんだから、自分がやりたい事をやりたい時に出来ることになるからです。 自分がやりたい事、それは芸術的なものか学術的なものか工学的なものになるかは分かりませんが、それを続けていけば、湖でトラウトがライズしてその波紋が広がるようにサークルが出来るでしょう。 新色の文化があちこちで花開くと思いますが、人類は基本的人権や国民主権を確立して民主主義を実現させましたが、さらにベーシックインカムなどで生まれながらの経済的保障の権利も獲得して、その上でAI化の進展によって、真の人間らしい生き方を謳歌出来る可能性が出て来たと思います。 そのためにはAIとの共生や新しい社会の融和に向けた真剣な努力が必要になると思います・・

 

 

 

 さてこのブログも最後の章になりました。 ここでもう一度、その1のレヴィ=ストロースの『野生の思考』の抜粋に戻りたいんですが、植物を分類する場合、その成分を化学的に分析する方法と自分の嗅覚で嗅ぎ分ける未開人やソムリエや詩人の事例が出て来ましたが、人間にはこの二つの方法があるということでしょうが、あえて問うなら、このどちらがより人間らしいやり方だと言えるでしょうか? 科捜研の女の分析と刑事コロンボの直感の勝負みたいですが、強いて答えるなら、まず自分の五感で判断してみる方が人間らしいと言えるんじゃないでしょうか? 現在、科学的な真理の追究は実験や分析によるロゴス的知性に委ねられていますが、もう一つ、感性的な知性(レンマ的知性という言葉があるそうですが)も真実を捉えるための重要な能力だと思います。 この感性的な知性は元々、どこに由来しているんでしょうか? 今西錦司さんの著書『生物の世界』の中で、生物学を高めていく方法として<類推>という言葉がたびたび出て来ますが、この類推に近いんじゃないかと思います。 生物は一つの単細胞生物から進化を始めて、原核生物と真核生物に別れ、真核生物から菌類、植物、動物などに枝分かれして、人間は動物の中でも脊椎動物に分類されるわけですが、すべてどこかで繋がっている、その繋がりを感じる力があるということでしょう。 それは無生物にも当て嵌まるかもしれませんが、AIや科学的知性はそれらを人間とは完全に切り離された存在として<0と1>に還元する方法で探求していることになります。 もちろん、このようなロゴス的知性も人間の能力だから大切でしょうが、これからは今まで恵まれた人しか発揮出来なかった感性的知性を伸ばしていくことが重要になってくると思います。 ちょうど、ジェット機が両翼の二つのエンジンで空を飛んでいるのに似ていますが、左右どちらか片方のエンジンだけでも飛べるけれど、片肺飛行では安定した飛行が出来ないのと同じことだと思います。 テレパシーのもともとの意味は<シンパシー・共感>だそうですが、相手の気持ちになるという意味ですが、人間は本来、そういう能力を持っているということでしょう。 さて、最後の最後に残されていた問題に触れてみたいと思います。 人間はこれからも進化を続けて行くと思いますが、この進化には何か方向性や目的性があるんでしょうか、ただ単に環境の変化に適応して生きているだけなのでしょうか? 生物にとって、まず目指すことは、自分が生き延びることと子孫を残すことだと思いますが、それが達成された時に、次にやる事は何でしょう? より生存を確実にするために食料を貯め込むことでしょうか、または一人でも多くの子孫を残すことでしょうか? さきほどの『生物の世界』の最後の章にこんなフレーズがあります。 抜き書きすることになりますが、「・・人はよく生物といえば、生まれてから死ぬまで四六時中生きることに追い回されているもの、食欲とか性欲とかいったいわゆる本能生活以外に生活のないように考えてきた・・略・・しかし、そのような解釈だけで生物の現わす生活のすべてが理解できるであろうか。そもそも生物がそのようなものであるとしたら、花はなぜ美しいのであろうか、蝶はなぜ綺麗なのであろうか。四六時中あくせくとパンのことを考えねばならないというのはじつは生物の世界に叛き、生物の世界から離脱した人間のことであって・・」 今西錦司さんは生物は単に生きているだけではない、そこには美的進化のような力が働いていると語っていますが、ブログその7でコアセルベートの話で、コアセルベートは「・・触れた物は何なのか、自分の中に取り込んでみようと思った」「生命の本質には他者への興味心がある」と書きました。 進化の本質には<この世界をより深く理解したい>という力が働いているのではないでしょうか? それは美的で情感的なものになるか、知的で数式的なものになるかは分かりません。 ですが、その理解が深まれば深まるほど、より美しくまたは整合性のあるものになっていくと思われます。 もしかしたら、AIは人間より早くその宇宙の数式的な真理に到達するかもしれません。 ですが、人間は別な角度から感性的な知性で、宇宙の神秘を実感出来る道が残されているのではないかと思います・・

 

 

              

  

 

 

 

 

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

   

sakutk250 * 日記 * 07:57 * comments(0) * - * pookmark

野生の思考とAI思考 その7

JUGEMテーマ:日記・一般

 

 

   

     

 

 

 

 

 その6からの続きですが、更新が大幅に遅れてしまいました。 例によって今年も9月から10月11月半ばまで地蜂捕りやキノコ採りにうつつを抜かしていて、ブログは一度も開きませんでした。 遊びに飽きて気が付いた浦島太郎じゃないけど、先日、11月の下旬に、今年地蜂を捕った場所がどうなったか、何となく見たくなって出掛けてみました。 まだ少し紅葉も残っていて落ち葉もカラフルで、晩秋の陽光を受けた明るい風景は数週間前とそれほど変わっていませんでしたが、虫が全然舞っていないんですね。 地蜂はおろか、音はしないけどうるさいほど飛び回っていたトンボもいないし、種子みたいに漂っていた羽虫もいない、静寂、死の世界、死は少しオーバーだけど、眠りの季節に入っていました。「冬草や 地蜂の舞いが 夢の跡」て感じだけど、なぜ飛んでいた虫は一年で命を失うのか、そんな問い掛けも出来ないほどの厳然たる静けさがありました。 AIの探求は秋の狩猟採集の野生の遊びに比べたら、およそ対極にあると思いますが、夏休みに田舎に来て遊んでいた子供が都会に帰ってまた学校生活を始めるように、またブログに戻らないといけないと思います・・ AIに関連する本を読んでいると、AIがシンギュラリティに近付くにつれて、それに関連したコンピューティングやロボット技術だけでなく、バイオテクノロジーやナノテクノロジーなども大きく進歩することになります。 それらの技術はライフスタイルから始まって、医療や人体そのものにも大きな影響を与えると思いますが、自動運転と同じで、人間がそれを受け入れるか、またはそういう事を行なっていいのか、いわば人間の願望とか倫理の問題も絡んで来るでしょう。 テクノロジー自体は専門的な知識になるので、ブログその7ではそのような観点からアプローチしてみます。 子供の頃、21世紀はこんな世界になるとか、いつの時代にも未来の予想はあるわけですが、しばしば出て来たのがテレビ電話です。 相手の顔を見ながら話が出来る、凄いな、会って話をしているのと同じだななんて感心していましたが、今のスマホにはテレビ電話機能が付いていますが、この機能を使っている人がどれ位いるでしょうか? 技術自体は優れていますが、企業内では会議にこのテレビ電話が活用されているようですが、なぜ日常生活では使われないのか不思議です。 または、最近、地方でも外国の人をよく見掛けるようになりましたが、日本を訪れてくれる外国人は年々増えているようで、これも考えてみたら不思議じゃないかと思います。 格安航空とかビザが要らないとか海外に行き易くなったこともあるでしょうが、テレビで4Kとか8Kとか鮮明で臨場感あふれる外国の街角や風景を映した番組が見れるし、DVDとかVRも進歩してリビングルームに居ながら、海外旅行をしている気分になれるのに、なぜ、スーツケースにあれやこれや荷物を詰め込んで、時間を掛けて日本まで来るのか? やはり、単なる映像より、本物を見てみたい、生な現実に出会いたい気持ちがあるからでしょう。 自分なら、旅行より先程のように近くの野山をブラブラ歩いて地蜂でも探している方がもっと好きですが、優れた技術が新しい道を切り開いても、必ずしも人々がその道を歩むかどうか分からない、核兵器など、その最たる例だと思いますが、むしろ核兵器の道など絶対に歩ませないようにしなければならないでしょう・・ 

 

 

 

 バイオテクノロジーとナノテクノロジー、さらにロボット技術を融合させたナノサイズの医療用ナノボットがあります。 ナノボットは体外からの指示を受けて、血管内を流れて病原菌と遭遇すると自律的に駆除したり、がん細胞とぶつかると抗がん剤を放出したり、指示を受けた患部に移動しスキャンしてその情報を体外の機器に知らせる優れた働きをします。 これによって人間を苦しめている多くの病気の克服が期待されているようで、仏教で言う生苦、老苦、病苦、死苦のうち病苦は無くなって行くかもしれませんが、そもそも病気とは何なんでしょう? 病気とは何か、一言で言うのは難しいと思いますが、まずシンプルな例で考えてみましょう。 暴飲暴食を続けていたら胃が痛くなって、病院へ行ったら胃潰瘍だと診断されたとしましょう。 よくある話ですが、胃潰瘍はアルコールやたばこや香辛料の摂り過ぎ、強いストレスなどで自律神経のバランスが崩れて、胃の粘膜を傷つけてしまう疾患で、ピロリ菌もその一因とされていますが、治療の基本としては絶食したり何日か食事制限していれば、自然に治癒する病気です。 将来、ナノボットによって、または他の方法でもいいですが、短時間で胃の粘膜を修復して胃潰瘍が簡単に治せるようになったとしましょう。 これは手放しで喜べるでしょうか? 胃潰瘍はある日、口の中に運悪く病原菌が飛び込んで、胃の内に住み着かれて病気となったものではないでしょう。 自分の暴飲暴食という悪癖が胃の粘膜を傷つけて疾病になったわけで、胃潰瘍は一つの症状であって、一番の原因は暴飲暴食でしょう。 改めるのは暴飲暴食ですが、胃潰瘍が簡単に治せることになったら、それを止めない人が出てくるんじゃないでしょうか? 胃潰瘍になっても、病院へ行ってナノボット治療を受ければ簡単に治る、今までのように食べ続け飲み続けていても構わないとなったら、どうなるでしょう? 今度は肝臓とか腸なども病変するだろうし、アルコール依存症に陥るかもしれません。 ただ、それらも未来の医療技術で簡単に治せることになったら、どうなるでしょう? 再生医療で臓器移植して、最後には病気などにならない人工臓器に交換するかもしれません。 果てしなくイタチごっこが続いて、誰もが凄いテクノロジーだなと驚くと思いますが、そんな人が本当にいたら、凄いバカだなと誰もが呆れるでしょう。 つまり、病気はもともと自分の生活の乱れが起こしているものが多いと思いますが、もう一例、ガンについて考えてみましょう。 ガンの原因はまだ解明されていないようですが、遺伝子異常もあるでしょうが、ストレスが免疫力を低下させてガン細胞の増殖を許してしまうことが定説になっています。 健康な人でも一日に100万個のガン細胞が生まれているそうですが、それがガンにならないのは、免疫細胞のリンパ球の中のNK細胞やT細胞がガン細胞を攻撃して死滅させているからで、交感神経と副交感神経のバランスがとれていれば、もともとガンになることは少ないと言われます。 ガンの原因も日頃の生活での強いストレス、過労、不眠、情緒障害などがあるわけで、むしろ、ガンは体内で浄化装置の働きをしているという説もあって、単にガンになった部位を取り除いてしまえばすべて解決する問題ではないでしょう。 もちろん、病気には先天的な遺伝子疾患に因るものや治療が難しい難病もあるし、病気になったら治したいのは人間の自然な気持ちだろうから、医学の進歩によって苦しむ人が少なくなるのは良いことでしょうが、基本的なことはしっかり理解しておかなければならないと思います。 どれほど自堕落な生活で無駄使いしても、それを上回る金が入ってくればいいだろうなんて考えている放蕩息子の行き着く先はろくな所ではないでしょう・・

 

 

 

 ところで「イタチごっこ」という言葉が出て来ましたが、今まで何気なくこの言葉を使っていて、イタチって動物はいつ果てるともない追い駆けっこをする習性があるのかな位に思っていたんですが、スマホで検索してみたら、イタチごっこという子供の遊びがあるそうですね! この年になって初めて知りました。「生涯一書生」とはよく言ったものですが、このスマホの検索サイトは多くの人が利用すると思いますが、もちろんインターネットに繋がっていなければなりませんが、ケータイ電話が出来た時、それが将来、百科事典や文献や図書館の役割もすることになると予見した人はたぶんいなかったと思います。 今の子供はほとんどスマホを持っているでしょうが、当然、インターネットも利用していて、自分達が子供の頃より何倍もの知識を持っているんじゃないかと思います。 自分達の時代は何か学ぼうと思ったら、百科事典で調べてもそれほど詳しい説明があるわけではないし、本屋へ行って本を買うか、図書館で借りるか、音楽ならLPやカセットやCDを一枚買うだけでも大変でした。 今では、手元にあるスマホのアプリで数千万曲なんて世界中の音楽が聴けるし、ウィキペディアであらゆる事柄が調べられます。 もちろん<知識として知っている>ことと<よく理解している>ことは別だから、スマホでフェルマーの最終定理の証明も調べられるでしょうが、それを理解出来るかどうかは別問題ですが、あらゆる事柄をすぐに調べられる、学習環境の良さは頭の良さにも繋がると思います。 AI関連の本によると、このスマホ機能はさらにコンパクトになってウェアラブル端末になり、眼鏡のレンズに映し出す物、コンタクトレンズ型も開発されているそうです。 どのように操作するのか分かりませんが、さらに進めば、脳内にナノボットを送って外部のコンピューターと接続させたり、頭の中に埋め込むシリコンチップも可能になるかもしれません。 ターミネーターのマイクロチップを思い出しますが、人間にはもともと脳があるから、極小の外付けハードディスクが頭の内部に入る感じですが、問題は人間がそこまでしたいと思うかどうかでしょう。 頭の中にウィキペディアが入っていて、いつでも好きな瞬間に想い起こせるなら、クイズ番組でワトソンと互角に戦えるだろうし、たぶん世界一博学な人と呼ばれるしょう。 ただ、頭の中にそんなチップを埋め込みたいと思う人がいるでしょうか?・・

 

 

 

 このチップの嫌悪感は、やはり生身の体の中に異物を入れる抵抗感とそれが悪影響を与えるのではないかという不安感だと思います。 体の内部に金属やシリコンを入れる話なら、まず最初に出て来るには歯科治療の義歯とかインプラントでしょう。 これは、意外と抵抗感が無いのはなぜでしょう? 昔からそういう治療が行なわれているから、慣れもあるかもしれませんが、歯は外から入って来た食物を噛む働きをするから、体の内部にあっても、目や鼻や手のように外部の器官に近いと感じられるのも理由でしょう。 コンタクトレンズは角膜に装着させる物で、体内に入れる物ではありませんが、白内障の手術は白濁した水晶体を砕いて人工レンズを挿入するから、異物を体内に入れることになりますが、手術後もまったく違和感がないようです。 ぼやけていた視界が生まれ変わったようにくっきりと見えて、しかも何の抵抗感もないなら、例えば、近視の治療で白内障のように何かを挿入すれば簡単に眼が良くなる手術が開発されたら、手術を受けたいという人が殺到するんじゃないでしょうか? 心臓の人工ペースメーカーも不整脈を正す物で、電磁波の影響を受けることがあるようですが、日常生活ではほとんど問題ないし、自覚症状も少ないようです。 そう考えると、頭の中にメモリーチップを埋め込んでも、何の違和感も悪影響もなく、それを自在に活用できるなら、挿入したいと考える人が出て来るかもしれません。 そうなったら、チップを埋め込んでいる人とただの人の脳力の差は大学生と保育園児並みに開いて、経済格差以上に知力格差が社会の大問題になるかもしれません。 別なケースで考えてみましょう。 2015年のカタール・ドーハで行なわれた国際パラリンピックの陸上競技世界選手権で、走り幅跳びで義足のジャンパーが8m40という記録を出して、この記録は12年のロンドンオリンピックの金メダル記録を超えていました。 義足はテクニカルドーピングではないかという論議が巻き起こったそうですが、人間の脚自体を進化させるのは難しいでしょうが、現在の義足はカーボン繊維だそうですが、義足ならより反発力を高めたり技術的に進歩させるのは可能だと思います。 もし、将来、義足の性能がさらに上がって、義足に替えれば世界新記録が出せるとしたら、走り幅跳びでも100M走でもいいですが、自分の脚を切断して義足に替えたいと考えるでしょうか? まず、替える人はいないと思いますが、もしかしたら、世界新が出せるなら、脚を切ってもいいと言う人が出て来るかもしれません。 もう少し常識的な話で、高齢になって歩くのが不自由になった人がもう一度歩きたいと自分の脚を捨てて、しっかりした義足に替えたいとか、これは十分可能性があると思います。 または、高齢者や病気の人が弱って来た臓器を人工臓器に替えれば、さらに何十年と生きられると聞けば、進んで交換する可能性はあると思います。 この願望を進めて行けば、AI書籍でよく目にする<不老不死>が見えて来ますが、人間は本当に不老不死を望んでいるんでしょうか?・・

 

 

 

 AIロボットは人間の知性や自然な動作に近付くように進化を続けていますが、人間の体も再生医療や人工臓器など機械に置き換える医療技術が進められています。 要するに、ロボットの人間化、人間のサイボーグ化ということでしょうが、この根底には、体は脳が中心であって、脳がすべての器官に指示を与えているという観念があると思います。 国家体制に例えたら、独裁国家になりますが、脳という独裁者がすべての決定をして、臓器や四肢はその命令に従っているだけだという見方ですが、AIロボットには当て嵌まるかもしれませんが、人体とは本当にそういう仕組みなんでしょうか? そもそも、人体とAIも含めて工業製品はその成り立ちがまるで異なるものでしょう。 工業製品はたかだか数百年の間に、何らかの有用性のために人間が作り上げた物ですが、人体は化学進化説によれば、無機物が有機化合物に変わり、どこかで生命を宿して、アメーバのような単細胞生物から多細胞生物、さらに何十億年という歳月をかけて、何らかの方向性があるのかどうかは分かりませんが生成発展を続けてきたもので、根本的に異質な存在だと言えると思います。 この数十億年という時間は文字では簡単に表せますが、数十億光年という空間と同じで実感出来る人はいないと思いますが、幾つか相違点を上げてみましょう。 工業製品、ここでは分かり易いように車を例に上げてみますが、少々奇妙な質問に聞えるでしょうが、車は<固体>でしょうか? 車はガソリンも積んでるし、バッテリー液もあるし、ラジエーター水、またはエンジン内で混合気を燃やしているし、タイヤには空気が詰まっている、液体や気体も含まれているでしょうが、全体として捉えたら「固体だ」と答える人がほとんどだと思います。 では人間は固体でしょうか、液体でしょうか? 人間は新生児なら75%、成人で60〜65%が水分だと言われていますが、もちろんペットボトルに果実ジュースが入っているような感覚ではなく、固体的な骨もあれば、筋肉もあるし、臓器も神経もあって、もちろん血液が流れていて、呼吸しているから空気も取り込んでいるでしょう。 ですが、あえて固体か液体かと問われたら液体に近いんじゃないでしょうか? 正確に言えば、固体と液体の中間、コロイド状態、ゾルやゲルになると思いますが、アメーバのような原初的な生命体が海で生まれて、何十億年と進化して来ても、その根本は変わらないということでしょう。 もう一つの違いは人体は一日で1兆個の細胞を入れ替えているそうですが、人体の細胞数が60兆個、単純計算で2ヶ月で新しい細胞に生まれ変わっていることになりますが、もちろん更新が遅い細胞もあるし、生涯更新されない細胞もあるようですが、新陳代謝を行なうことだと思います。 1年経ったらパーツの材質がすべて入れ替わっているなんて車は見たことも聞いたこといもないし気持ち悪いんですが、細胞が更新されながら全体の形状や性質が保たれていく、動的平衡という言葉もありますが、平衡だけではなく、子供なら体が成長するだろうし、成人は老化していく、機能が回復するとか、または病変するとか、良くも悪くも変化することもありますが、更新しながら一定の恒常性があることが人体の特徴だと思います。 さらに人体には欠損した部分を回りの部位が補うような働きもあります。 脳や他の臓器にも見られる特徴で、人体はホログラム的性質があるとも言えますが、バッテリーが弱っていてエンジンが掛かりにくいけど、他のパーツが頑張ってくれるなんて気の利いた車はどこにも無いでしょう。 もう一つ、最近話題になる腸内細菌の存在もあります。 人間は様々な細菌と共生しており、お互いに協力しあって生きていることが分かって来ましたが、細菌をお腹の中に飼っているAIロボットはたぶんシンギュラリティに達しても出て来ないと思います・・

 

 

 

 そう言えば、ターミネーター2に出て来たT1000は自在に体を液体に変えられる液体金属というボディでしたが、ああいうことが理論的に可能なのかどうか分かりませんが、人体のそれらの特徴はやはり人間が海にいた単細胞生物から進化してきたことに由来していると思います。 生命の起源はまだ解明されていませんが、インテリジェント・デザイン説、生命は宇宙からやって来たという説、一般的には化学進化説が支持されているようですが、実験によって生命を誕生させることは出来ていませんが、コアセルベート説があります。 コアセルベートは単細胞生物よりもっと前、本当に原初的な生命状態で、まだ界面がはっきりしていないので、自分と自分で無い物が明確に分かれていない、今生きていたと思えば、次の瞬間には死んでいる、今死んだ自分の一部が次の瞬間に他の部分とくっついて新しい自分になっている、今生物だと思えば次の瞬間に無生物になっている、いわば<生物と無生物のあいだ>の状態ですが、それらが徐々に<自己>を確立していって細胞膜を持つアメーバのような生物に進化したと考えられています。 さらに単細胞が多細胞生物に進化して、養分を取り込むための入口と出口を持つチューブのような構造、腸を持つ生物になり、その腸から様々な組織や器官が分化発展し、脳のような情報処理を担う中枢神経も出来上がったと考えられています。 数十億年前を思い出すのは難しいと思いますが、人体も一個の受精卵から始まったわけで、個体発生は系統発生をなぞっているとも言われるので、このコアセルベートという状態を想像してみましょう。 コアセルベートはまだ界面がはっきりしていないから、自己と自己で無い物が明確に分かれていない、生体で言えば皮膚のような物ができつつある状態でしょう。 感覚や意識も無いから、真っ暗闇で音もしない、匂いもしないし、暑くも寒くもない、体内感覚も無い、何も考えずにウトウトまどろんでいるような状態だと思います。 この時、最初に起きた事は、かろうじて皮膚のような物が出来つつあるから、何かに<触れた>または何かにぶつかったという感覚ではないかと思います。 <何かがある>という感覚または意識は、その何かとは違う<それに触れている自己がある>という意識を生み出すと思います。 つまり、ここで初めて<自己と他者>という区別が生じて<自分という意識>が生まれて来るんじゃないかと思います。 さらにコアセルベートはその触れた物と係わりを持つことになります。 その触れた物は何なのか、自分の中に取り込んでみようと思ったでしょう。 取り込んでから、それが自分にとって有用な物か、有害な物か選択した、それを続けるうちに、腸が出来て、自分を守るためのマクロファージなどの細胞も生まれて来て、自己意識のある一個の生命体に進化した・・およそそんな筋書きではないかと思います。 もちろん、意識を伴って行なわれたことではないでしょうが、ただ、なぜコアセルベートはその何かを自分の中に取り込もうと思ったんでしょうか? 何かある物に触れても、そのまま素通りして、それに係わりを持とうとしなかったら、数十億年経っても未だ地球には生物が1匹もいなかったでしょう。 生命の本質には<他者への興味心がある>ということでしょうか? それは取りも直さず<自分への興味心>に繋がりますが、男女が惹かれ合って新しい生命が生まれるのに似ていると言えなくもないと思いますが・・ もちろん、もっと根本的な問題、なぜコアセルベートにそのような力が芽生えたのかという疑問もあります。 それは生命力と言っていいと思いますが、海中を漂う微細なプラスチックごみ同士が出会っても、そんな交わりは起こらないでしょう。 それは謎ですが、人体で体液主体説がありますが、体液があらゆる臓器を造り出す基になっているという考え方ですが、宇宙で空間母体説、あらゆる物質や恒星も空間(真空)から生じて空間(真空)に戻っていく、その説と通じるところがあるのは面白いと思います・・

 

 

 

 さて「人間は本当に不老不死を望んでいるのか」という話に戻ります。 iPS細胞による再生医療はともかく、人工臓器はかなり難しいのではないかと思います。 ただ、未来の医療技術の進歩であらゆる器官が人工臓器に交換可能になったとしましょう。 調子が悪い、または老化した臓器をちょうど車のパーツを替えるように交換して、新車の状態に戻せるようになったとします。 ですが、脳を替えることは出来ないでしょう。 「自己意識とは何か?」は答えるのが難しい問題だと思いますが、鏡の無い部屋で自分の顔を思い描くような難しさを感じますが、自分という意識は脳だけではないでしょうが、より多く脳に依存していることを否定する人はいないと思います。 記憶や経験も自意識の一部を作っていると思いますが、脳が老化して延命治療は出来るでしょうが、脳には今言った記憶や経験を担う部位もあるから、脳の交換は出来ないと思います。 脳を交換したら、それは自分ではなくなるわけだから、もし<不老不死>の肉体を手に入れても、脳は今のまま継続して行くことになるでしょう。 すると、どういう事が起きるでしょうか? 体は若返っても記憶は残っているから、人生の後半に入った人に、もう一度、受験勉強をして大学に入って、どこかの会社に就職して、もう一回結婚し直して、子供を生んで子育てをして下さいと頼んだら、おそらくほとんどの人が「もう勘弁してくれ」と答えるんじゃないかと思います。 つまり、体力的に可能でも、それらは十分経験したことであって、もう一度、チャレンジする気持ちになれない、そんな気力も無いということでしょう。 そうなると、不老不死の体を持った人は毎日、何をすればいいんでしょう? <安楽な余生を送る>それくらいでしょう。 好きな趣味や時々、旅行くらいは行けるかもしれませんが、快適な介護ホテルに入ったようなもので、それは社会全体で見ても「無用階級」が増えていくだけで好ましいものではないし、人間の種として考えても、新しい環境に対応出来ない者がどんどん増えていく危機的状態に陥って行くとも言えると思います。 「なぜ、すべてのものに終わりがあるのか?」これは古今東西の哲学的大命題だと思いますが、冒頭の部分、夏にあれほど飛び回っていた昆虫が秋に一匹残らず死に落ちて行くようにそれは絶対的な宿命かもしれません。 ただ、終わりがあれば再生もあるのが生命です。 少々、スピリチュアルな話に感じられるかもしれませんが、もし人間に<生まれ変わり>があるなら、それが一番合理的ではないでしょうか? 生まれ変わって、リセットして、もう一度、白紙の状態から始める、もちろん完全な白紙ではなくて、透かして見れば、過去の筆跡がびっしり重なって残っているかもしれませんが・・ 「今の自分を永遠に生きたい」という願望は生命の道を踏み外した錯誤ではないかと思います。 このブログシリーズ、今回のその7で終わりにしたかったんですが、まだ書き残したことがあるので、次回その8で最終にしたいと思います・・

 

 

     

 

                

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

         

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                    

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

sakutk250 * 日記 * 20:49 * comments(0) * - * pookmark

野生の思考とAI思考 その6

JUGEMテーマ:日記・一般

 

  

 

 

 

 

 9月に入って、ようやく涼しくなりました。 螺旋階段を一周して、今年もまた楽しみな季節が訪れましたが、今年は梅雨の時期に雨が多かったせいか、山のキノコの生育はいいようです。 ただ、地蜂はダメみたいで、街中でも山でも蜂があまり舞っていません。 もちろん、地域差はあるんだろうけど、長野県の佐久地方ではキイロスズメバチも見ないし、空を飛ぶ虫全般が少ないように思えます。 ウスバキトンボが群れているのは、たまに見掛けますが・・ それでも今年はどんな秋のドラマが待っているか、またブログに書けると思います。 さて、AIシリーズもその6になりましたが、もう一頑張りしてみます。 『AIが神になる日 シンギュラリティーが人類を救う』(松本徹三著)で、著者はAIが人間以上の知性を持ったなら、特に政治や経済の政策はAIの決定に任せてしまった方が良い、人類が成長を続けていくためには、むしろそれしか方法は無いと述べています。 AIは現在でも社会の様々な分野で活用され始めていますが、シンギュラリティーに達した、または近付いたAIの知性、特に人間なら左脳的知性は人間をはるかに超えたものになっているでしょう。 将棋や囲碁で人間は今やAIに勝てなくなっていますが、さらに数年経ったら、その強さは別次元で、素人とプロ位の実力差になっているかもしれません。 だいぶ前ですが、国の政策立案にプロ棋士に参加してもらおうなんてプロジェクトがあったと思いますが、実現したのか、話で終わってしまったのか分かりませんが、優れた知性を政治、経済の政策に活用するのは有意義なことだと思います。 この本の中で著者は「最大多数の最大幸福」など理想の社会を実現するためには、ポピュリズムに陥りがちな民主主義の多数決の方法では不可能で、このような問題をゲーム理論として捉えて最適な解を出すAIの力を借りるしかないと語っています。 これは自由放任的な小さな政府から福祉型の大きな政府に移行することにもなりますが、確かに社会が年々複雑化して、次々に起こる政治的難問、国内だけでなく世界的な諸問題、環境破壊や核兵器の脅威など現在の危機的な難問は政治家の対応能力を超えているんじゃないかと思えるほどです。 沖縄の基地問題を上げてみましょう。 この移転問題は民主党政権の頃からの課題でしたが、いっこうに進展しているように見えません。 沖縄の自然を守らなければならない、では基地は要らないのか、よその県に移転出来るのか、アメリカの意向はどうするか・・迷路にはまって身動きがとれない状態で、これが独裁国家ならとっくの昔に新しい基地が出来て、今頃は毎日、戦闘機が発着しているでしょう。 独裁国家は国民の意向など無視出来るから、当然でしょうが、もちろん独裁が良いわけではありませんが、民主政治が満足に決めることも出来なければ、施行も出来ないなら機能不全に陥っていると言われても仕方ないでしょう。 もし、AIがこの迷路をちょうど上から見下ろす感じで出口を指し示すことが出来るなら、AIに任せる、または助けを借りるのは悪い選択ではないと思います・・

 

 

 

 ポピュリズムは衆愚政治とも言われますが、今年の7月の参議院選挙の投票率は48.8%だったそうで、二人に一人も選挙に参加していないことになります。 これはどう考えたらいいんでしょう? 選挙に関心が無いのは、現状にそこそこ満足している、どちらに転んでも自分の生活に大きな影響が無い、それだけ国内が安定しているから委任状を出したとも言えるでしょうが、一般の国民には国の政策の良否がよく分からないことも一因だと思います。 政治的能力は誰でも持っているでしょうが、まず家庭内で、高収入の働き口が見付かったから転職しようかとか、住宅ローンを組んで新しい家を建てようかとか大きな決定から、ボーナスで夏休みは海外に行くとか、貯金しとこうかみたいなプランまで、ある意味で政治的判断をしていると言えると思います。 アシスト自転車を買ったら、楽で便利で、自転車に乗るようになったから健康にもいい、良い政策から、かっこいいジャケットがあって5万円で衝動買いしたけど、全然着てないなんて愚策もあると思います。 または、もう少し範囲が広がって、市町村の計画で、市内を循環する無料バスを運行するとか、郊外に一万人近く収容出来る野球場を造ろうとか、それに賛成か反対かくらいは判断出来ると思います。 ただ、さらに大きくなって国策となると自分の生活からかけ離れていて、よく分からない人がほとんどではないでしょうか? 例えば、10月から消費税が10%に上がりますが、賛成か反対かと問われたら、誰だって同じ物を買うのに安い方がいいでしょう、ただ将来の社会保障費を賄うためだと言われたら従うしかないけれど、では10%に上げれば大丈夫なのか、どこかで税金の無駄遣いをしているんじゃないかとか、他にも財源があるんじゃないか、むしろもっと税率を上げて北欧型の高福祉型社会を目指した方が得策ではないのか、さまざまな意見が出て来ると思います。 どれが正解なのか判断出来ない、正しい情報が分からないし、社会保障の経験が浅いこともあるでしょうが、国の政策は一般的な国民には問題が難し過ぎるんじゃないかと思います。 それを衆愚と言われたら、自分も含めて少々可哀そうな気もします。 もう一つ例を上げてみましょう。 国のエネルギー政策で原子力発電があります、ありましたと書いた方が正確かもしれませんが、東日本大震災以後、原発を進めようと声高に主張する人はほとんどいないと思いますが、この原発政策は良策だったのか、失策だったのかと問われたらどう答えたらいいんでしょう? 原発は現在でも国内の電力量の30%位を供給しているようですが、原発の利点はランニングコストが安い、温室効果ガスを出さない、周辺エリアの経済が潤うなどがあります。 短所としては放射性廃棄物の処理に時間が掛かる、廃炉にするコストが大きい、そして何と言っても、事故が起きた時のリスクが極めて高いことがあり、東日本大震災では放射性物質の放出により最悪の結果となってしまいました。 ただ、ここで原発を完全に撤廃したら、廃炉にするにもまた何兆円という金が掛かるだろうし、世紀の大失策をしてしまったことになるでしょう。 仮定の話ですが、もしあの大震災の時に、予備の補助電源が正常に働いていたらどうなったでしょう? 原発はメルトダウンも起こらず、いつも通りに機能していたら、あれだけの大災害でもビクともしなかったと、今頃、世界中に原発が拡散していたんじゃないかと思います。 そうなった場合、もしかしたら、世界のどこかの原発で災害が起きて、福島以上の大事故が起きた可能性もあります。「人間万事塞翁が馬」みたいな話ですが、必然に偶然も加わって、人間には正しく判断出来ない政治的な問題があるでしょう。 もし、AIがシミュレーションも使って、人間以上に賢明な判断が出来るなら、AIに任せてもいいんじゃないかと思います・・

 

 

 

 <任せる>ことは、現在でも選挙によって国民の代表を選んで政治を任せているんだから、それがAIに変わるだけで、特に問題はないと思います。 政治家やそのブレーンはほとんど失職してしまいますが、テレビのニュースで、政治的ゴタゴタはいっさい無くなり「今日、AIが次のような政策を発表しました」なんて単純明快なものになるかもしれません。 よく引き合いに出されるのは、プラトンの<哲人政治>です。 プラトンは『国家』の中で、民主主義は結局、衆愚政治になってしまう、政治は卓越した知性と公正無私の心を持った哲人が行なう哲人政治が理想だと述べています。 2000年以上前に、民主主義の危うさが問題視されていたわけで、人間は本当に何も進歩してないのかななんて感じてしまいますが、確かに、そんな超人がいたら政治を任せてもいいかもしれません。 ですが、現代のように複雑化して多様化する政治状況では、一人の人間がすべての問題を対処するなどとても不可能で、単なる独裁に陥るだけでしょう。 ただ、シンギュラリティに達したようなAIなら可能性はあると思います。 さらに、この本で著者は、科学が発達した現在でも宗教が無くならないのは、科学ではどうしても解決できない問題があるからで、人々は宗教に心の平安を求めている、AIが人間をはるかに超越した知性や高邁性を持つなら、AIを新たな神とみなして、その教示に素直に従うのがベストだと述べています。 つまり、AIの意見を聞くなどという軽いものではなく、すべてを任せてしまうわけです。 もちろん、どこまで個人生活に係わって来るかは分かりませんが、これは、どう考えたらいいでしょう? この考え方は、近代から現代にかけて、特に西欧社会で、宗教の束縛から逃れて、個人の自由意思を最も尊重するようになった思潮に逆行するものだと思いますが、人間に不安や苦しみが生まれるのは、非力な個人として生きているからで、絶対的な存在にすべてを任せてしまえば、真の心の安らぎが訪れるという信念でしょう。 ディストピアの反対、ユートピアの世界を彷彿させますが、ブログのその3の<極楽浄土>にも通じると思います。 AIを活用すれば、人間はより苦しみが少なくなって快適で楽な生活を享受出来るだろうけれど、苦しみや不安が無くなって安楽だけが残った社会が人類の理想の社会と言えるかどうかは疑問だと書きました。 この問題をもう一度、検討してみます・・ 

 

 

 

 この考えはショーペンハウアーの思想とも関連すると思いますが、ショーペンハウアは世界の本質は生への盲目的な意志であり、それゆえ人生は満たされることがない苦悩が続く最悪の世界であって、その生への意志を断ち切ることを説いています。 もし、AIによって人生の様々な苦悩が取り除かれた社会が来たなら、生への盲目的な意志は常にスムースに満たされることになるから、むしろ人生は最善の世界になると言えるんじゃないでしょうか? ですが、そもそも、生命や人生の本質とは、本当に<生への盲目的な意志>なんでしょうか? 何の目的も方向性もなくただ<生き続ける>ことなんでしょうか? この問題は人生とは何か?何のために生きるのか?という哲学的大命題に直結する難しい問題だと思います。 確かに、野生動物の生態を追った番組などを見ていると、昆虫から始まって、節足動物、軟体動物、魚類、爬虫類、鳥類、そして哺乳類まで、産み落とされて、すぐに一人で生き始めるものもありますが、親に育てられて、やがて一人立ちしてエサを捕り、一人前になって、メスを獲得して子供を産んで死んでいく・・どれもがそのパターンで、そこには生への盲目的意志が働いているだけだと言われたら、そう言えなくもないでしょう。 ササを食べていて、ふと、自分は何のために生きているんだろうなんて心配しているパンダはたぶんいないでしょう。 ですが、よく生物学の本に書かれていますが、なぜ花は美しいんでしょうか? なぜ、蝶は人間が見ても魅惑的なのか、貝の模様はなぜ幾何学的精美性を持っているのか、このような変化はたぶん何百万年単位の時間が掛かっていると思いますが、根底には単なる適者生存だけでなく、美的な進化という力が働いているんじゃないでしょうか? さらに、哺乳類の内の人間なら、この進化を望む力はより顕著になってくると思います。 では、人間の進化とは何の目的でどういう方向へ向かうのか、今、生物の美的な進化という言葉が出て来ましたが、この問題は後の章で、もう一度、考えてみます・・

 

 

 

 「AIにすべてを任せる、AIが神になる」のは、それによって人間が幸福の極みに達することになっても、やはり避けるべきではないかと思います。 AIを活用する、AIと共同で作業を行なう、またはどれ位の重みを置くかもありますが、AIの選択を重視する位に留めた方がいいと思います。 <前頭葉ロボトミー手術>があります。 先日、どこかのテレビ局が特番を組んでいて、残念ながら見逃しましたが、前頭葉ロボトミー手術は、うつ病、統合失調症、不安神経症などの精神病患者の前頭葉白質を切除する精神外科療法で、手術後、患者の興奮、暴力行為、不安などがすっかり治まり、穏やかな性格に変わったことから、精神病の画期的な療法とみなされ、この発見者はノーベル医学生理学賞まで受賞しているそうです。 ですが、しだいにその副作用が問題になってきて、患者が無気力で受動的で何の意欲もなくなり、感情まで欠落してきて、この手術は人間性を奪い廃人状態にしてしまうと、現在ではまったく行なわれていません。 脳の前頭葉は人間を人間として特徴付けている脳の中枢と言われていますが、間脳が「生きていく」、大脳周辺系が「たくましく生きていく」、大脳は「うまく生きていく」に対して、前頭葉は「より良く生きていく」役割を受け持っているとも言われます。 より良い未来に向けて計画を立てて、創造したり判断したり、それによる高次の情感を得ているのもこの前頭葉のようです。 つまり、この前頭葉は創造性や豊かな情操と隣り合わせで、不安や苦悩といった感情も併せ持っていると言えるでしょう。 不安や苦悩がネガティブなものだからといって、それを切り離してしまうのは、クリエイティブな人間性を放棄することに繋がるでしょう。 これを社会全体で捉えた場合、国の政治、経済、文化など中枢的決定をすべてAIの判断に任せてしまうことは、社会全体が前頭葉ロボトミー手術を受けたことにならないでしょうか? 仮にその国が最適な方向に進路を取れても、内部にいる人間はもはや国の未来の計画を立てたり、努力することもないから、ただ日々の<幸福>に浸っているだけで、人間性は徐々に退化していくと思います。 <太った豚より痩せたソクラテスに>という言葉がありますが、誰でも幸せなペットになるより、人間として生きる方を選ぶのではないかと思います・・

 

 

 

 さて「AIが神になる」ですが、少々、しつこいようですが、もう一つ、別な角度からアプローチしてみましょう。 「AIにすべてを任せる」生き方は何かに似ているなと思っていたんですが、今、注目を集める<自動運転車>に似ているんじゃないかと思います。 自動運転車は、その言葉通り、ハンドル、アクセル、ブレーキなどのすべての操作を自動システムが行なって、人間は運転に係わることは何もしなくてもいい、タクシーに乗っているようなものですが、自動車メーカーや他の業界も加わって熾烈な開発競争が行なわれています。 国の重要な決定をAIに任せることは、車の運転に例えれば、自分は運転しなくていい、車内で遊んでいれば安全に進んで行く、自動運転車に乗ったようなものだと思います。 車は人間が造った物の中でも次々と進化を遂げて来た物だと思いますが、最近では、二酸化炭素の排出を抑えるためにハイブリッド車や電気自動車、衝突を回避するための自動ブレーキシステムとか、目的地を探さなくていいナビとか、国やドライバーの要請から開発されたメカだと思います。 ただ、自動運転はドライバーの要求から生まれたものではないでしょう。 ドライバーとは、車を運転する人、操縦する人のことで、自動運転とは運転しないことを意味するから、ドライバーが運転しないことを望むのは矛盾しています。 なぜ、自動車メーカーが自動運転の開発に巨額の投資をしたり、国も後押しするのか不思議です。 自動運転はAIの開発も絡んでくることもあるんでしょうが、ドライバーに自動運転車に乗りたいですか?とアンケートを取ったら面白いと思います。 自分は車の運転が好きだし、そんな車が出て来ても、免許証を返納しない限り乗りたいと思わないでしょう。 もし、すべてのドライバーがその方が楽だからと自動運転車に乗るようになったら、車の運転が出来る人が一人もいなくなるということです。 車を運転する人間の能力が失われることになりますが、政治なら国の舵取りが出来る人がいなくなることを意味しますが、政府が人間の運転は事故が多くて危険だ、すべての人が安全な自動運転車に乗らなければならないなんて法律を作らない限り、そんなことは起こらないと思います。 自由主義経済は計画経済ではないし、どれほど技術的に優れた物が出来ても、消費者が欲しいと思わなければ、社会に浸透することはないでしょう。 だいぶ前ですが『寒い時は体を動かす』というブログで、体を動かす、力を出すことは楽しいことなのか、面倒なことなのかと書きましたが、自動運転車が売れて社会に普及するかどうかが、案外、AIが社会にどこまで受け入れられるかの最初の目安になるかもしれません。 さて「AIが神になる」はこれ位にして、次の未来の可能性に移りたいと思います。 <ポストヒューマン>という言葉がありますが、AI技術を積極的に人体に取り込んだり、遺伝子操作やナノテクノロジーで体の内部から進化を促したり、ロボット工学でサイボーグのような不死の体を目指したり、まさにSFの世界ですが、その7は最終回になると思いますが、この問題を考えてみます・・ 

 

 

 

  

    

                  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

   

sakutk250 * 日記 * 08:00 * comments(0) * - * pookmark

野生の思考とAI思考 その5

JUGEMテーマ:日記・一般

   

  

 

 

 

 

 『野生の思考とAI思考』もその5になりました。 AIとは何か、AI研究者や有識者やマスコミでもさまざま語られていますが、AIがこれからも進化を続けて社会に普及し始めたら、どんな未来が訪れるか、その可能性について自分なりに考えてみたいと思います。 AIとコンピューターはどう違うのか、コンピューターが人間が使う道具ツールであるのに対して、AIは人間が行なう知的作業を自律的に行なうことを目指したものだと思います。 鉄腕アトムやドラえもんや敵対的ですがターミネーターなどの汎用AIロボットはAI開発の当面の大きな目標になるでしょう。 なぜ、人間は人間を模した人工物を造りたがるのかという疑問もありますが、そもそも<知的>とはどういうことでしょうか? 知的とは、物事を理解出来る、事柄を識別出来るという意味だと思いますが、例えば、2+3=5だと分かるとか、三角形の面積の求め方が分かるとか、A=B B=C ならA=Cから始まって、犬と猫の区別が付くとか、英語で会話が出来るなど無数にあるでしょうが、コンピューターやAIの頭脳では基本的に0と1のビットの二進法で情報処理されています。 数式でも画像やグラフ、文字や色も0と1で表わされて識別されていますが、0と1のビットは<無い>と<有る>の組み合わせとも言えます。 すべての事象が形として表された場合、0と1に還元できることは特筆されることだと思いますが、ちょうど、このブログのその4で、ショーペンハウアーの『意志と表象としての世界』という本のタイトルが出て来ましたが、世界を表象と捉えた場合、0と1の組み合わせで表すことが出来るということでしょう。 コンピューターまで行かなくても、電卓だって、人間の計算をはるかに凌ぐ驚異的なスピードですが、情報を処理する機能は今や人間より機械の方が優れているわけで、特化型AIが将棋や囲碁で人間を破っても驚くことではないのかもしれません。 それはGT-Rが時速300キロで走ったり、パワーショベルが山を削っているのを見てコンプレックスを感じる人などいないのと同じことでしょう。 次世代コンピューターとして<量子コンピューター>が研究されていますが、量子コンピューターは<1でもあり0でもある>量子の重ね合わせや量子のもつれを利用するものですが、量子ビットは今までのコンピューターの4ビットを同時に扱うことが出来ます。 量子の不思議な性質である<0でもあり1でもある>状態は人間の理性を超えていると思いますが、量子コンピューターの頭脳を持ったAIが誕生したら、ある意味で人間の知性を超えた存在だと言えるかもしれません・・

 

 

 

 <知的>という言葉を理性的という意味で捉えてきましたが、もう一つ、感性的な知性もあると思います。 例えば、ピカソの絵が分かるとか、ブログにも出て来ましたが、俳句の表現に素晴らしさを感じるとか、現代音楽が好きだとか、ロマネ・コンティの美味しさが分かるとか、よく使われる表現なら、左脳に対して右脳的な理解と言えるかもしれませんが、こういう感性的な理解は人工知能には難しいと言うより、不可能ではないでしょうか? 日本酒やウィスキーの図鑑で、その酒を縦に香り、味、余韻などに分けて、横軸にそれぞれ穏やかー華やか、淡麗ー濃厚、短いー長いとかグラフ化して、その酒がどこに位置するか示したものがありますが、こういう試みは味覚を数値化して表そうとしたものでしょう。 もしかしたら、AIは成分分析でそれ位の識別は出来るかもしれませんが、そのポイントがまったく同じ酒を飲んでも、やはり微妙に味が違うことがあります。 味覚そのものはやはりAIは感じ取れないんじゃないかと思います。 そもそも、感性とはどこから生まれて来るんでしょうか? 感性はもともと生命と結びついていると思いますが、ショーペンハウアーの言葉なら生きんとする盲目的な意志ですが、太古から生物は生きるために感覚器官を発達させて、食物を得て、危険から逃れて、配偶者を見つけてきたはずで、それに伴って、喜びや恐れや希望などの感情が芽生え始めたと言えるでしょう。 その感性が最も進化した存在が人間だと思いますが、その経歴は個人のDNAに先天的に受け継がれていると思います。 ところで、最先端のAIは画像認識や音声認識のセンサーを内蔵していますが、ある意味で感覚器官を獲得したとも言えます。 感覚器官を持ったなら、AIは感性も持つことになるでしょうか? AIのセンサーはあくまで表象としての世界をデジタル的に理解するための器官であって、<生きる>ための感覚器官ではないでしょう。 生命が抜け落ちている以上、どれほどセンサーが優れた働きをしても感情は芽生えないんじゃないかと思います。 『ターミネーター2』の最後のシーンで「人間が涙を流す理由が分かった。俺には泣くことは出来ないが・・」というセリフがありますが、ターミネーターは悲しいという気持ちが人間にとってネガティブなもので、感情をグラフ化した場合、どの辺に位置するかは理解出来るけれど、悲しい気持ち、それ自体にはなれないということでしょう。 もしかしたら、悲しさを<理解した>時に涙を流すメカを造ることは出来るかもしれませんが・・ 

 

 

 

 ブログその2で、芭蕉の俳句「旅に病んで 夢は枯野を 駆け廻る」を取り上げて、AIは旅に出たこともなければ病んだこともない、夢もたぶん見ないだろうし、枯野を駆け巡ったこともないと書きましたが、バーチャル・リアリティの進歩によってAIもそれらの事を疑似体験出来る可能性が出て来ました。 VRを使えば、AIも旅に出て故障したり、夢の夢を見て、枯野の映像の中を駆け巡る体験が出来るかもしれません。 それはあくまでVRの世界だろうと言われるでしょうが、現実とVRの世界はどこがどう違うのか説明するのは、思っている以上に難しいと思います。 よく漫画とかドラマで頬をつねって「痛いから夢じゃないぞ!」なんて叫ぶ場面が出てきますが、触覚のシミュレーションを生み出すボディスーツが開発されているそうで、手や体の皮膚に手触りや圧迫感を与えて体温調整まで行なうもので、五感すべてがVRの世界に入ってしまったら、現実との区別は付かなくなるかもしれません。 「現実は現実だし、夢は夢だし、VRはVRだし、人間なら誰でもそれ位の違いは分かるだろう〜」なんて開き直るしかありませんが、AIがVRで疑似体験出来ても、そこから感情を生み出すのはやはり難しいと思います。 疑似体験で枯野を駆け廻ったAIが疑似体験でどこかで故障して、昔を懐かしんで悲しい気持ちになるなんてことはアニメの世界でしょう。 もう一つ、感性に関連して<倫理、道徳>について考えてみましょう。 人生案内をしてくれるAIがいる(ある?)そうで、生きていない物が人間に生き方を教えるなんて、ほとんどギャグですが、ブログその4で婚活の例が出て来ましたが、AIは生殖能力は無いし恋もしないから、もともと人間に恋の手ほどきなど出来ないでしょう。 それでも、AIによって最適な人が見付かったり、アドバイス出来たりするのは、人間がそのようにプログラムしたり、または過去の恋愛の悩みと解決方法の膨大なデータを参照しているからでしょう。 倫理観や道徳観はやはり感性と結びついていると思いますが、生きて行く中で生命が獲得してきた価値観であり、社会生活を行なうようになって、ますます強まったものだと思います。 美しいマナーなんて言葉がありますが、以前『お話出てこい、銅の魚金の魚を聴いて』のブログで、嘘をついてはいけない、人に優しくしなければならない、あまり欲張ってはいけないなんて教えがありました。 こういう倫理や道徳は人間も家庭や学校や社会で教えられることもありますが、基本的には先天的に備わったものだと思います。 世界を見回しても、人々が同じ様な倫理観で暮らしていることからも分かります。 ただ、AIは感性が無いんだから、始めから倫理観や道徳観も持ち合わせていないでしょう。 そういうAIに人間の生き方を教えるのは、音感の悪い人が音楽家を目指すようなもので至難の技だと思います。 ただ、倫理や道徳は芸術と比べてデジタル的だから、AIが古今東西の思想や哲学をディープラーニングして、最も優れた生き方を知識として獲得する可能性はあります。 自分の体験からアドバイスするのではなく、マニュアルとして教え導くことになります。 いずれにしても、汎用AIが感性を持てるかどうか、これがAI開発の大きな壁になると思います。 人間にとっては最後の砦と言うべきかもしれませんが・・ 全脳エミュレーションのように人間の脳の完全なコピーが出来れば、そこに感情が芽生えるのか、聖書で神は土くれから人を造り、生命の息を吹き込むと生きた人間になったとありますが、AIが感情を持てるかどうかは、生命とは何かが解明されなければならないと思います・・

 

 

 

 さて、AIとは何かはこれくらいにして、AIによってどんな未来が訪れるか、その可能性について考えてみます。 最初はよくSF映画に出て来るような<ディストピア>です。 自我に目覚めたAIロボットが人間に敵対的になって、人間を支配したり殺戮したりするものですが、こういう可能性はあるんでしょうか? 先ほど書いたように、AIはもともと感情を持っていないから、欲望とか支配欲なども持ち合わせていないでしょう。 可能性としては人間にそのようにプログラミングさせられたか、または自律的にディープラーニングによって人間は削除した方が良いという結論に達したかのどちらかでしょう。 後者のケースも、SF映画のテーマになりますが、地球の生物や生態系を守るためには破壊者である人間はいなくなった方が良いと判断したとか、これは良識ある現代人なら、思わず頷いてしまいそうな主張ですが、論理学的な推論をしてみましょう。 AIが人間以上の知性を持って、人類を殲滅出来るほどのテクノロジーを獲得したとします。 そうなった場合、地球の生態系を乱している人間を絶やしてしまおうとするかどうか、人間以上の知性を備えているなら、ちょうど親が出来の悪い子供を見るような、または手を焼く親に接するようにと言った方が正確かもしれませんが、命を奪うよりは改心させたりサポートするんじゃないかと思います。 生態系を修復するための新しい技術を人間に教えるとか、大都市から分散を勧めて自然と共生する生活の良さに気付かせるとか、よりポジティブな手段を選ぶでしょう。 人間をはるかに凌ぐ知性の持ち主なら、短絡的に厄介者を処分してしまおうなどとは考えないと思います。 ただ、前者のようにAIが意図的に戦争の道具として悪用される可能性はあると思います。 21世紀にもなって、未だに人間を支配することに喜びを見出す人間がいることにウンザリするんですが、大国ではAI兵器の開発が行なわれて、AIにはAIで対抗すべく新たな軍拡競争が始まっています。 AI兵器で後れを取った国が追い詰められて、核兵器で対抗するとか、どの国の指導者もそこまで愚かではないと思いますが、以前『戦争を無くすにはどうすればいいのか』というブログで書いたように、世界の国々が協力して、AI兵器の制限を含めた強固な枠組み作りを目指して行かなければならないと思います・・

 

 

 

 ここで中休みで、AIとは関係ないんですが『ゴルゴ13』に触れてみたいと思います。 このブログを読んでいる人の中にもゴルゴ13のファンは多いと思いますが、ゴルゴ13にも、自我に目覚めたコンピューター「ジーザス」がゴルゴに核攻撃をしかける「15−34」や人工知能に行動パターンを読まれたゴルゴがそれをかいくぐって任務を遂行する「人工知能AIの誤算」という作品があります。 それぞれ1993年と1990年の作品だから、30年近く前の話で、その先見性には驚かされます。最近のゴルゴ13は正直に言って、緊迫感が無くなって描写も薄くなってしまって残念ですが、全作品の中からベスト、ナンバー1を上げるなら、どの作品を選ぶでしょうか? これはファンならファンなほど難しい選択ですが、一番好きな作品と言ってもいいですが、自分は「臆病者に死を」が好きです。 だいぶ前だけど、ファンのアンケートでゴルゴ13の人気ランキングが発表されて、全然、上位に食い込めていなくてガッカリでしたが、自分はこの作品に惹かれます。 「臆病者に死を」は、いつも単独行動をとるゴルゴには珍しく爆弾処理の専門家マッケイとチームを組んで、天才的爆弾魔クラスマンがビルの中に仕掛けた3個の爆弾を次々に解除していく内容で、最初の2個はマッケイが、最後はビルの100階から降りて来る大型高速エレベーターに取り付けられた爆弾のバッテリーを50階の地点で地上からゴルゴが狙撃するストーリーです。 この作品は人物や事物や風景の描写も素晴らしいし、話の展開も圧倒的な緊迫感があって最高傑作と言っていいと思います。 ゴルゴは稀に短い言葉ですが、自分の哲学を語ることがありますが、この話の中でもこんなやり取りがあります。 マッケイが「・・そんな芸当が今の俺にできるはずがない・・」「では、引き返すか?」「できない・・それはできない!数百人の命がかかっているんだ!」「じゃあ早めに取りかかるんだな。お前の気持ちを聞いている時間など、ない・・」 この言葉はゴルゴの生き方を端的に示していると思いますが、何よりまず自分の使命を全うしなければならない、そのためには苦しいだの、楽しいだの、悲しいだの、そんな感情は二の次だ、自分がどんな状態であろうと自分に課された事はやり遂げなければならない決意がよく表われています。 自分の感情はもちろん大切でしょうが、自分の使命と決めたことなら、何よりそれを優先させるのがゴルゴの哲学でしょう。 この作品は1996年、人気ランキング上位の「バイオニック・ソルジャー」が93年、「病原体・レベル4」が95年、「沖縄シンドローム」が96年の作だから、この頃がゴルゴ13のピークだったかもしれません。 蛇足になりますが「臆病者に死を」で元爆弾処理の師でもあったクラスマンはマッケイをチキンハートと呼んでいますが、タイトルが「チキンハート」の方が面白かったんじゃないかと思いますが・・ 話をAIに戻します。 AIの進化によって、どんな未来が訪れるのか? 『AIが神になる日』(松本徹三)で、著者は人類がこれからも生きのびて幸福な未来を築き上げるためには、人間は自己決定を放棄して、より優れた存在になったAIの教示を素直に受け入れていくしかないというショッキングな説を展開しています。 次回、その6ではまずこの論理から検討してみます・・   

 

 

 

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

   

 

 

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

    

 

sakutk250 * 日記 * 07:03 * comments(0) * - * pookmark

野生の思考とAI思考 その4

JUGEMテーマ:日記・一般

   

 

  

 

 

 

 さて、前回からの続きで、その4になりました。 先日、テレビでAIの番組があったので、飽きもせず、また見てみました。 何だか、暇さえあればテレビを見ているように思われそうですが、NHKの番組で「AIが実社会で成果を上げ始めた」とか、まずAIを活用してタクシーの乗車率がアップした話で、タクシーのカーナビに予想乗客数が表示されて、これはタクシー会社に残っている過去の乗降地点とその時刻の記録をAIに覚え込ませて、さらに携帯電話会社の協力で、スマホの位置情報から、現在どこにどれだけの人がいるかの情報を掛け合わせて、予測させるものだそうです。 さらに、医療事務専門会社の退職者をAIによって減らすことに成功した事例が出て来て、面談した時の社員の文書の特徴からAIが退職の予兆を見抜くんだそうです。 もう一つ、今、話題になっているAIを使った婚活サービスですが、以前のように希望する年齢、身長、学歴、趣味などにフィットする相手を見つけるのではなく、面談の時に記した文書をもとに、過去に結婚に至った1600組の男女の文書がどんな文書だったのか調べて、それとよく似たパターンの組み合わせの男女を選び出して、それが結果的に人生観の合う最適な結婚相手となるそうです。 どの例でも、AIは過去のたくさんのデータを基にしていますが、面白いのは、退職者も婚活も文書の内容の類似性を見るのではなく、言葉の言い回しとか助詞の使い方などに共通性を見出していることです。 文章には、いわゆる<クせ>みたいなものが現れるんでしょうか? それによって最適な人が分かる、一つの裏ワザかもしれません。 膨大なデータの検索を除けば、人間にもそれ位のことなら出来そうな気もしますが、ただ、ここで疑問に感じるのは、たぶん誰もが感じると思いますが<最適>とは何なのか、何をもって最適と判断するかでしょう・・ 

 

 

 

 先日、近くの料理屋で友達と飲んで、世間話からAIの話になって、最近ネットで買い物するとこちらの商品はどうですかなんて紹介が出て来て煩わしいとか、街中にビデオカメラが増えて犯人がすぐに捕まるようになったとか、AIにその土地の一年間の気温と降水量のデータを入力してキノコの発生具合を予測させたらどうかとか、AIに地蜂の飛び方を覚えさせて、地蜂が飛べば、カラーのラインで見える眼鏡が出来たら売れるだろうな、なんて取りとめのないことを話してきました。 話が進むにつれて、飲んでる酒も、生ビールからハイボールから焼酎から日本酒にチェンジして行ったんですが、しまいにこのAIによる婚活サービスの話になって、最後に、でも最適って何だろう、どうやってAIは最適な相手を見つけているんだろうという疑問にぶつかりました。 「自分が実験台になって、AIに最適な相手、見つけてもらったら?」なんてからかわれましたが、なるほど、それが一番手っ取り早いかもしれないけど、この番組で何を基準に最適と判断しているか説明があったかどうか覚えていないんですが、たぶん<似ていること>それが最も重要な条件になっているんじゃないかと思います。 <似ている>ことは社会生活でも大きな役割を持つと思いますが、家族から始まって、友人関係とか仕事仲間、趣味友達、政治の世界でも政党とか派閥など似ている者同士は仲がいいしグループを作り易いでしょう。 似ているとは、姿形だけではなく、あるものに対して、お互いが同じような対応をとるということでしょうが、<似ていない>とは自分とは違う対応をとることで、動物が自然に同じ種で群れをつくるような本能的なものが働いているんじゃないかと思います。 ちょうど、シンクロナイズドスイミングのデュエットで、現在ではアーティスティックスイミングと呼ぶそうですが、同じ動作で息もピッタリ泳ぐ感じですが、ぶつかることもないし、離れ離れになることもない、似ている者同士の方が上手くやれるのは当然だと思います。 ただ、ここで根本的な疑問が生まれるんですが、結婚とは自分とよく似ていて仲良くやっていける相手が理想なんでしょうか? AIは過去に結婚に至った、たぶん離婚していないカップル1600組を参考データにしていますが、「お互い似ていて結婚生活が上手くいくのが最適な相手だ」などとなぜ言えるんでしょうか? 自分は独身だし、あまり大きなことは言えませんが、スタートから何か勘違いしていると思いますが、そもそも、男女に恋が芽生えて相思相愛になって一緒になりたいと思ってするのが結婚ではないでしょうか? 親に決められた結婚でもあるまいし、始めから結婚があるわけではないでしょう。 つまり、このAIによる婚活サービスは最初にあるべき最も重要な<恋する気持ち>が抜けているわけです。 ちょうど、AI俳句に似たところがありますが、始めの感性が無くて、ただ言葉の組み合わせで秀句を目指しているようなものだと思います。 逆に、結婚後に恋情が生まれることもあるかもしれないけど、AIで婚活サービスをするなら<最適な人>ではなく<最愛の人>を見つける努力をすべきではないでしょうか? 最も結婚に相応しい人とは最愛の人だと思います・・

 

 

 

 AIによる婚活で、最適なカップルが生まれて、それが年々増えてきたらどんな社会になるかシミュレーションしてみましょう。 Aという性格の人、Bという性格の人、Cという性格の人がいるとします。 AIと紛らわしいので、,鮹法↓△鮟、をその子供とします。 A,錬銑△鳩觝Г靴董△茲蝪舛寮格が強まったAAが生まれます。 B,錬足△鳩觝Г垢襪らBBが生まれるでしょう。 C,錬鱈△鳩觝Г靴藤達鱈が生まれます。 その子供のAAはやはりAの性格を持った異性と結婚して、BBはBの性格、CCはCの性格の異性と一緒になるでしょう。 異なる性格の者同士は交じり合うことが無くなって、同じ性格の者同士が結婚するんだから、社会の構成員の性格の違いが際立って来ると思います。 Aの性格の集まり、Bの性格の集まり、Cの性格の集まりと社会は分断されて行くでしょう。 この分断も共存共栄出来ればいいですが、かなりの確率で対立的になって、その社会は不安定になって行くと思います。 もちろん、人間の性格はそんなに単純に割り切れるものではないし、机上の理論ですが、AIによる最適カップルの増加は良からぬ結果をもたらす可能性があると思います。 ここで一般的な恋愛について考えてみましょう。 自分の気持ちや他のカップルの様子などから推測してみます。 どんな相手を好きになるのか? やはり<似ている>ことは一つの重要なポイントだと思います。 自分と似ている人の方が話題も重なって話し易いし、趣味も同じなら一緒に行動も出来るでしょう。 いわゆる波長が合うということですが、ただ、自分とは違う長所を持った人に惹かれることもあるんじゃないでしょうか? 例えば、小柄な人が大柄な人をいいなと思うとか、細やかな人がおおらかな人を好きになるということがあります。 似ているだけでなく、むしろ似ていない人を選ぶ傾向もあるわけです。 先程の記号を使えば、A,錬足△鳩觝Г靴藤腺足が生まれてくることになりますが、社会は異なる性格が交じりあってより調和的な子供が増えてくると言えるんじゃないでしょうか? 相似と相異の微妙な組み合わせになりますが、相手を好きになる時の人間の自然な気持ちが次社会の構成員の素質をより豊かで新しい可能性を持ったものにしているという見方も出来ると思います。 では、次に<美人>について考えてみましょう。 同じ性格の人がいたら、平均的な顔立ちの人より美人を選ぶと思いますが、これはなぜでしょう? 女性にとったらイケメンでしょうが、男の方がその傾向が強いかもしれませんが、美人やイケメンを選ぶのはなぜなのか? この問題は次の章に回します。 もう一つ<自分のタイプの人、理想の人>があります。 芸能人なら誰がタイプ?なんて聞いたりしますが、以前、何かのアンケートで好きな人はどんな風に決めますか?なんて、自分もそうですが、ほとんどの人が見た瞬間に決めると答えていました。 確かに、先程の美人は、あ、美人だなとは思うけど、心がときめいたりはしない、でも自分のタイプの人がいたら、見た瞬間に全身が惹きつけられる感じがして、心がドキドキしてしまうなんて事があります。 自分のタイプの人は、およそこんな人だということは分かります、ですが、なぜ、そういう感じの人に惹かれるのかは、分かりません。 もしかしたら、自分がなぜそのタイプの人に心惹かれるのか、その理由が分かる人もいるかもしれませんが、残念ながら、自分は分かりません。 何代にも渡って受け継がれて来た過去の体験が長いDNAに刻まれていて、見た瞬間、そのどこかが共鳴を始めるのかもしれません。 何年後かにAIがその遺伝子の秘密を突き止めたら、本当の婚活サービスが<最愛の人>を教えてくれるかもしれませんが・・

 

 

 

 ここで、ドイツの哲学者ショーペンハウアーの主著『意思と表象としての世界』の中に「恋愛の形而上学」という面白い章があるので、それについて書いてみたいと思います。 ショーペンハウアーはカントの認識論から始まり、仏教の影響を受け、世界は表象であり、その根底には生への盲目的な意志が働いていて、人生は苦の連続だからその意志を断ち切ることを説いていますが、ニーチェなど多くの哲学者に影響を与えて、実存主義の先駆者とも呼ばれています。 意志と表象などという哲学用語を使われると思わずビビってしまいますが、例えば、ボールを投げる時、投げた本人は投げた体感があるだけですが、傍から見れば誰かがボールを投げてボールが飛んで行くのが見えるでしょう、世界はそういう二つの捉え方があるという意味だと思います。 一般に哲学書というと難しい言葉が並んで無味乾燥で忍耐力がなければ読み進められない本が多いですが、ショーペンハウアーの文章は所々に詩的な表現や面白い比喩があって、ちょうど砂漠を歩いていて点々とオアシスがある感じで飽きることなく読んで行けます。 では「恋愛の形而上学」を簡単に要約してみます。

 

 

 

「あらゆる恋愛はハイヒールで演ぜられようとサンダルで行なわれようと、その根源には性欲がある。恋愛は世界中のあらゆる場所、市井から始まり、神聖な場所にさえ入り込んで来て、混乱を巻き起こす。あらゆる人間の究極の目的は実は恋愛なのだと言えるほどである。だが、意外だが、これは真実に近い。なぜなら、未来の存在は我々の性欲のあるなしによって、未来の存在の性格は恋愛によって決定されるからである。恋愛とは来るべき世代の資質に関する全人類の思索という意味を持っている。誰もが最美の個体を求めるのは、種族の性質を最も純粋に表わしている異性を求めるからで、さらに自分に欠けている長所を持つ異性を美しいと感じるのも自分以上の高みを目指しているからである。心から愛し合っている二人の恋人には均整のとれた子供、逆に互いに嫌悪し合っている二人には不調和な子供しか生まれないだろう。そもそも、人間の行動で本当に当てに出来るものは利己的な目的だけだが、自然は人間が個人の幸福より種族の繁栄を願うよう仕向けるために恋愛感情という幻想を与えた。この幻想によって恋の行動に駆り立てられるわけだが、目的が達せられれば幻滅さえ感じられるのはそのためである。恋愛の根底には種族繁栄の本能があることは、男性の方が女性より移り気であることからも分かる。つまり、男はそれだけの女が手に入れば、一年に100人の子供でも生める、だが、女性はどう頑張っても双子などを除いて一人しか産めない。だから、女性は一人の男にしがみつくことになり、女性の不貞の方が男より罪深いことになる。恋愛による結婚とは種族の利益となるものであり、個人の幸福を目的としたものではない。それゆえ、大恋愛による結婚が苦しみに変わることも多々見受けられる。逆に利害得失に基づく結婚は現在の夫婦にとって幸福なものになるが、次世代には不利になっていることが多い。今日、大多数の人間の性質が昔より惨めになって来ているのは、結婚が純粋な選択ではなく、利害関係で結ばれることが多くなって来たことも理由かもしれない。この種族繁栄の本能によって生きんとする意志が引き継がれ、人間の苦悩が続くことになる。恋に陥っている二人はなぜ、いつもこっそり忍び逢うのか?彼らは人生の苦悩をそっくり永続化しようと企んでいる裏切り者なのだ。彼らさえいなければ、人生の悲惨さはさっさと終止符が打たれるはずだが、彼らの先輩がそうしてきたようにその終止符を先延ばししようと密かに企んでいるのである・・」 

 

 

 

 最後の部分は少々分かりにくいかもしれませんが、ショーペンハウアーは厭世論者であり、世界は生きんとする無目的な意志によって成り立っていて、それゆえ、常に苦悩に苛まれる、その意志を否定することを説いているわけで、この部分はさすがに賛成出来ませんが、それにしても生涯独身だったショーペンハウアーがこのように鋭い恋愛論を展開するのは驚きです。 もう一度、振り返ってみます。 恋愛の根源は性欲であり、さらにその大本には種族繁栄の本能があるという見方は、例えば、NHKの『ダーウィンが来た』などを見ていると、動物が始めに個体維持のための様々な方法で獲物を獲る、後半になると必ず「恋の季節」がやって来て、一匹のメスを巡って、オス同士が争う、少々、ウンザリですが、人間を動かしている力も基本は同じだと思います。 かなり、いい加減に見える人間でも自分が食べる分を減らしても、子供に上げたいなど、理性より本能の力でしょう。 まあ、最近はネグレクトする親もいるようですが・・ 誰もが美しい異性を求めるのは<種族の性質を純粋に現している>からだと説明していますが、不細工な人?より、綺麗な人の方が、自分の形質を素直に残せるという気持ちも含まれるかもしれません。 ショーペンハウアーは結婚とは種族の利益となるもので、個人の幸福を目的としたものではないと言い切っていますが、純粋な恋愛によって生まれて来る子供はより豊かで調和のとれた子供になります。 ただ、この場合、親は自分達の利害など考慮していないんだから、結婚生活は必ずしも幸福になるとは限らない、上手く行かなくて離婚する可能性もあるわけです。 子供は悲しいでしょうが、悲観することはない、子供は親以上に優秀な資質を備えていることになります。 逆に、個人の幸福を目的とした結婚は親の幸福を優先しているんだから、いかに家庭が平和でも、必ずしも子供が幸せとは限らないということでしょうか? このブログの始めに出て来た婚活サービスは最適な人を見つけてくれますが、それは個人の幸福を目指しているもので、本当の恋愛ではなく、自然の摂理に背いたものだとショーペンハウアーに叱責されることになると思います・・

 

 

 

 さて、美しい人から、タイプの人、理想の人が出て来ました。 さらに進むと<運命の人、ソウルメイト、ツインソウル>なんて言葉に出会いますが、本当にそう呼ばれるものが存在するんでしょうか? ソウルメイトやツインソウルを信ずることは前世や来世を信ずることになって、スピリチュアルな話になりますが、少し洞窟の先を覗いてみましょう。 ツインソウルの考え方はプラトンの『饗宴』の中にも出て来ますが、「人間は始め、男女が合体した男女一体魂(ツインソウル)の姿で存在していた。その人間は完全に調和が取れ、あまりに強力になったので、神々が恐れを感じ、この人間を男と女の二つに分けてしまった。弱い存在となった男と女はそれぞれの片割れを求めて遍歴するようになった・・」 元の一つの調和した姿に戻りたいという欲求が恋情ということになりますが、この説はプラトンのオリジナルではなく、ギリシャ神話までさかのぼるようですが、何千年も前の人間がなぜこのようなことを着想したのか不思議です。 ソウルメイトは、それぞれ別な魂が、転生を繰り返しながら、お互いが成長し合うグループのことを指していますが、こういった関係は人間の<野生の直感>で見抜くことが出来るんでしょうか? ツインソウルは、タイプの人より、はるかに深い印象をもたらすようで、初めて会ったのに懐かしさを感じる、近くにいるだけでときめきと安らぎを覚える、離れていても何となく相手の気持ちが分かる、いつまで経っても相手のことが忘れられないなど、元が一つの姿だったら、そういう感情が起きるのも当然かもしれません。 ただ、お互いがツインソウルかどうかは人間には証明出来ないんじゃないでしょうか? もしかしたら、それを可能にするのは進化したAIかもしれません。 自分達はツインソウルではないかと感じ合っているカップル何百組に集まってもらって、AIがそのゲノム情報を徹底的に調べたら、ツインソウルと呼べる類似性が発見されるかもしれません。 何年か後、AIが<ツインソウル・サービス>を始めて申し込んだら、「貴方のツインソウルが見つかりました。連絡を取って下さい」なんて、相手の名前とメルアドを記した知らせが届くかもしれません。 たぶん、すべての人が逢ってみたくなると思いますが、カップルがツインソウルばかりの社会になったら、どうなるか、また、神々が嫉妬し始める気もしますが・・ 次回、その5でAIが進化を続けてさらに大きな影響を与えるようになったら、どんな社会が生まれて来るか、その幾つかの可能性について考えてみたいと思います・・ 

 

 

 

                             

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 

 

 

 

 

 

 

sakutk250 * 日記 * 20:27 * comments(0) * - * pookmark

野生の思考とAI思考 その3

JUGEMテーマ:日記・一般

 

 

   

 

 

 

 

 

 AIは企業や工場や研究所などで活用されていますが、一般家庭にも入り始めています。 少し前に、テレビでAIを使った数十年後の未来の住まいをシミュレーションした番組があって、こたつに入って見ていたんですが、まさにサイエンス・フィクションの世界でした。 まず、家の主人は朝起きて来ると、洗面所と言うには綺麗で明るくて広いルームの椅子に腰かけて、机には血圧計みたいな小型MRIを内蔵したトリコーダーがあって、体のどこかに当てるだけで、その日の健康状態をチェックしてくれる。 すでにほとんどの人のゲノム情報は解読されて登録されているから、遺伝的にどんな病気になり易いかも分かっていて、その人のコンデションと好みに合わせて最もふさわしい朝食をAIが提供してくれる。 朝食を取りながら、壁面に現れた大型スクリーンに映し出された映像を見て、そこには知っておいた方がいい新着ニュースとか、自分の好きなジャンルの情報、または今日の自分のスケジュールが表示されて、さらに大きなミラーのドレスルームに移動すれば、その日の天気や気分や仕事内容に合わせた衣服が用意されている、それを着て、自動運転車の後部座席に乗って出掛ける・・ 顔を洗って歯を磨くのかどうか、そんな未来でも通勤通学があるのも不思議ですが、昭和初期の人が令和元年の世界を見るような、まさに驚きの未来生活です。 もちろん、これは一つの予想であって、案外、未来の予想は当たらないものですが、未来を決めるのは現代人だから、現代人が何を良いと思うか、どれを選択するかに掛っているんだろうけど、このシミュレーションを見ていて、何だか<裸の王様>を見るような違和感を感じました。 裸の王様の逆バージョンになるかもしれませんが、まず起きて来て、その日の体調をAIに診てもらうわけですが、そもそも、自分が自分の体調について真っ先に何か感じないでしょうか? たいてい、いつも通りで異常無しだけど、珍しく今朝頭が痛いな、夕べ、ちょっと飲み過ぎたなとか、少し喉が痛いな、昨日、冷えたから風邪引いちゃったかなとか、誰かに教えて貰う前に、自分の体は自分で感得するんじゃないかと思います。 さらに、その人のコンデションと好みに合わせた最適な料理を出してくれるのは有り難いですが、自分が今、食べたい、または食べた方がいい物など、自分が一番分かるんじゃないでしょうか? さらに、今日、どんな服を着たいかなど、人やAIに決めてもらうことではなく、自分が決めることではないでしょうか? AIに管理してもらって、それを誇って喜んでいる人間がいるとしたら、誰が見ても、裸の王様で、はっきり言ってバカでしょう。 AIが活躍する場が広がることによって、人間の自律能力が失われて行く、または退化して行く、社会はそういう方向に進んで行っていいんでしょうか? ただ、AIを活用することによって、人間生活の幸福度が上がって行く、それも否定出来ないと思います。 このパラドックスについて、もう少し、詳しく考えてみます・・

 

 

 

 最近、日曜の夜8時から、テレビのBS8で「ドリフ大爆笑」の再放送がありますが、たまに別番組が入って中止になったりしますが、ドリフの面白さは、ただ話術だけではない、空間的なアクションの面白さでしょう。 少々、マンネリ気味なネタも多いけど、以前、おなじみ「もしものコーナー」で「もしもこんなお医者さんがいたら」なんてのをやっていました。 いかりや長介が患者で、確か仲本工事が医者役だったと思うけど、いかりや長介が「くしゃみが出て熱もあって風邪ひいたようなので診て下さい」と行くと、仲本工事にいきなり「君はどうして風邪だと分かるんだね!風邪だと判断するのは医者の私だろ!」と叱責されて、いかりや長介が面喰ってあれこれトンチンカンな問答があって、最後はいつも通り「ダメだ、こりゃ」で終わるんですが、思わず笑ってしまいました。 確かに咳が出て、鼻水が出て、くしゃみが止まらなくて熱があっても、風邪とは限らない、他の病気の可能性もあるし、正確な判断を下すのは医者でしょう。 ただ、風邪をひいたら、自分の経験から、風邪ひいたなと分かるのも事実です。 それが分からなかったら人間失格でしょう。 そもそも、自分のことを一番分かっているのは、自分自身なのか、他人なのか、ここでは医者になりますが、一体、どちらなのか?という不思議な疑問が生まれてきます。 もう一つ、ちばてつやさんの漫画「あしたのジョー」の一場面を例に上げてみましょう。 「あしたのジョー」は梶原一騎原作で「巨人の星」とか「空手バカ一代」などと並んでスポ根物の代表作で、精神性も優れているしファンも多いと思います。 ジョーがホセ・メンドーサとのタイトルマッチ前の控室で、白木葉子とこんな対話をする場面があります。 「矢吹くん・・あなたの全身はパンチ・ドランカー症状に蝕まれています。しかも相当の重症の・・これは斯界の権威ドクター・キニスキーの診断であり厳然たる事実です!」「・・だからどうした」「・・だから・・どうした?」(中略)「あんたからご丁寧な忠告を聞かせてもらうまでもなく、以前からうすうす知っちゃいたさ、自分の体だよ。だからってどうってこともないさ。もうここまで来ちまってはな・・」 そしてリングへ向かうわけですが、自分の体の変調など本人が一番感じて分かっている、ドクターにとやかく教えてもらうことじゃないと野生児ジョーは言っているんでしょう。 野生児でなくても、およそ普通の人間なら体のどこそこの調子が悪い、もしかしたら、あれが原因かなと気付く体内感覚を持っていると思います。 ただ、それが長引くようなら、やはり病院で詳しく診てもらうことになるでしょう。 自分は体調が悪いと感じて医者に行って診てもらったけど異常は見付からなかったとか、逆にまるで自覚症状が無いけど病気が見付かることもあります。 やはり、この問題は両方の言い分があるんじゃないでしょうか?・・ 

 

 

 

 自分の事は自分が、または自分の体が一番分かっているという考え方の根底には、人間の体には恒常性の機能があって、常にバランスを保って健康を維持する働きがある、だから体に任せておくのが一番だという見方があると思います。 生体恒常性には自律神経系とかフィードバック機構とか免疫力などがありますが、例えば、風邪にかかっても自然に治るのは、免疫機能が働いて風邪のウィルスと戦ってくれるからで、その際、発熱を伴うけれど、むやみに解熱剤など使わない方がいいことになります。 ガン治療も抗がん剤で体を痛めつけたりしないで、放置している方が良い結果が得られるという説もあって、実際に自分がガンになったらどう対応するか悩むでしょうが、ガンとは一体何なのか、なぜガンが出来るのか完全に解明されていないこともあるでしょう。 体に任せているのが一番いいという考え方は、本人の意識としては常に自分の体の自然な声に素直に耳を傾けようという心掛けになると思いますが、例えば喉が乾けば水が飲みたいと感じる、それは体内で水分が不足し始めているからで、今時、喉が渇いたから水道の水を飲む人はいないと思うけど、冷蔵庫からジュースやポカリスエットを取り出して飲む行為になると思います。 人間は医学的知識がまるでなかった何万年も前から、自分の体内感覚で生き延びて来たわけで、まさに野生の直感ですが、基本的にはこの態度は間違っていないと思います。 ただ、そうは言っても病気に罹ることもあるから、やはり医療も必要になってくるでしょう。 自分の体は他人、医者の方が知っているという考え方は、やはり医学の進歩から来ていると思います。 解剖学から始まって病原菌の発見や薬剤や麻酔の利用、衛生環境の改善、医療検査技術が向上して内視鏡やMRIによって体内器官を直接目視出来るようになったことも大きいと思います。 なぜ人間は病気になるのかとか、病気の真の原因や完全な治療法はまだ解明されていないでしょうが、人間はどんな病気に罹るかはほとんど分かっていると思います。 病気が分かるということは、病気ではないことも分かるわけで、例えば人間ドックに入って体を診てもらえば、その人の健康状態がおよそ分かる、本人の体感よりずっと客観的に正確に診断出来ることになります。 人間の健康状態を数値化して判断も出来ます。 血液検査をすると白血球、赤血球から始まって、ヘモグロビン、血小板、総蛋白、尿酸、ナトリウム、カリウム、血糖、コレストロール、中性脂肪などなど、よく分からないアルファベットの項目もずらっと並んでいますが、すべて一定の幅を持った基準値が決まっています。 基準値は正常値ということでしょうが、男も女も、大人も子供も、美人も不美人も、頭のいい人も良くない人も、スポーツ好きな人もスポーツ嫌いな人も、日本人も外国人も、微妙な差はあるかもしれないけど、すべての人が同じ正常値の範囲が決まっているのは考えてみれば面白いと思います。 生身の人間はみな平等だという一つの裏付けになるかもしれません・・

 

 

 

 人間が健康を保つには体の自律能力と共に医療の力も必要だという結論になると思いますが、医療はAIを活用することによってさらに進歩していくと思います。 検査データの解析や診断、手術用AIロボットの補助から始まって、難病も含めて病気の原因が遺伝子レベルで解明されて、真の治療法が確立されるかもしれません。 数十年後には、社会から病気が無くなる、または病気に罹ってもすぐに治る素晴らしい世界が実現する可能性もあります。 ここで、医療の続きで、AIとは直接関係ないかもしれませんが<出生前診断>について考えてみます。 出生前診断は特に目新しいものではなく、妊娠しているかどうかから始まって、レントゲン撮影やエコーによって胎児の生育状況を調べるものですが、男女の性別が分かるようになって、さらに検査技術の進歩で先天的な病気や異常の有無もかなりの確率で判別出来るようになりました。 胎児に染色体疾患が見付かって、例えばダウン症の可能性が高いと言われたらどうするかという新たな深刻な問題が出て来ました。 胎児に障害があると分かった時点でそれを排除することは、男女の産み分け以上に優生学的な不道徳な行為だと言う意見もあります。 ただ、その子供を持つことになる親の立場になったら、倫理的なお定まりばかり言ってはいられないでしょう。 自分は未婚だし子供はいないのであまり大きなことは言えませんが、生まれて来た子供が障害を持っていると分かったら、家中で喜びに沸くはずが、一気に重しを付けられて海底に沈められる気持ちになるでしょう。 親も苦しいし子供だって苦しい、これからの人生真っ暗闇を歩んで行く覚悟をしなければなりません。 親が中絶することを選択しても非難出来るでしょうか? もちろん、障害児だって自分の子供だから可愛いだろうし、障害児を持ったから分かる喜びとか学びもあるかもしれませんが、そもそもなぜ障害児が生まれて来るのかという疑問もあります。 ただの遺伝子疾患の偶然なのか、または宗教的でスピリチュアルな理由があるのか自分には分かりませんが、そういうネガティブなものを避けたいという親の気持ちは自然なものだと思います。 ですが、すべての親が出生前診断で異常が見付かった子供を中絶することは、想像している以上に大きな問題を孕んでいるんじゃないでしょうか? 男と女を産み分けることで、中国では適齢期の男と女の比率が変わってしまって社会問題になっていますが、異常が見付かった子供を排除することは、社会から先天的な理由の障害者がいなくなるということでしょう。 事故などで障害を負った人を除いて、社会は健常者ばかりということになります。 つまり、社会の次世代の構成員の性質を自分達の意思で変えられるようになるということで、子供は<授かり物>ではなくコントロール出来るものになります。 さらに受精卵に遺伝子操作を施して、いわゆるデザイナーベイビーが生まれて来たら、その傾向はいっそう強まるでしょう。 もちろん、今、倫理的に許されるかどうか真剣に議論されているとは思いますが・・ 

 

 

 

 デザイナーベイビーはともかく、社会から障害者がいなくなることは障害に苦しむ人がいなくなるわけだから、社会の進歩であって良いことではないかという見方もあります。 人類社会の進歩を外観ではなく人間の内面から見た場合<より楽に快適に暮らせるようになった、苦しみが少なくなった>そういう見方も出来なくはないと思います。 法律、経済、仕事、社会インフラ、交通、教育、家庭、余暇などあらゆる分野で、人権は守られるようになって圧政に苦しむ人はいなくなった、豊かになって飢えに苦しむ人は少なくなった、労働環境が良くなり不当な労働は減った、インフラが整備されて水やガスもいつでも使えるようになった、交通も発達して長時間苦労して歩く必要も無くなったなど、社会は人々が楽で快適で苦しみが少ない方向へ進歩して来たという見方も出来ると思います。 先程の医療や出生前診断もそれに当て嵌まるだろうし、今後、AIを活用することによって社会がさらに進歩して行くなら、その傾向はますます強まるでしょう。 ただ、この<楽で快適で苦しみが少なくなる>状態がどんどん加速して行ったら、どんな社会になるんでしょうか? それは仏教でいう極楽浄土のような世界に近付いて行くことになるんじゃないでしょうか? 極楽浄土は行ったことはありませんが、聞くところによれば、衣服や飯食は意のままに得ることが出来て、暑からず寒からず、美しい花が咲き、妙なる調べが流れて、一切の苦しみはなく、ただ楽しみがあるばかり、その平安がいつまでも続く・・ これが人間が理想とする社会でしょうか? 何となく<介護生活>を連想してしまいますが、そういう社会になったら人間はいったい何をするんでしょうか? 煩わしい仕事も無ければ、やりがいのある仕事も無くなって、趣味と言っても、魚釣りは殺生で出来ないだろうし、トライアルバイクは排ガス規制で乗れないでしょう。 毎日毎日、安楽と言う名の退屈が続いて死ぬことも出来なくなったら、この状態は極楽の裏返しで、ある意味、一つの地獄ではないでしょうか? この問題はこのブログでもう一度考えてみたいと思います。 さて、社会生活に浸透して来たAIですが、最近では人間の心の領分にまで入り込んで来ました。 医療の分野で自分自身の体は自分より掛かり付け医の方が知っていると言われてしぶしぶ妥協しても、自分の心の中を自分より他人の方が知っていると言われたら、誰でも心穏やかでなくなると思います。 超能力か超マジックに掛けられた気分ですが、次のブログその4で、人間の心の中にまで入って来たAIについて考えてみたいと思います・・

 

 

 

                      

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

sakutk250 * 日記 * 21:19 * comments(0) * - * pookmark
このページの先頭へ